田んぼを描く
絵葉書にする絵をどうするか考えて、並べてみている。あれこれ見ている内にここにはないものにした。近く写真を撮ろうと思っている。
田んぼの絵を毎日描いている。田んぼはなかなか題材として面白い。絵としてみると実に多様で複雑なものなのだ。田んぼには稲が植えられている。よく見ると水面下の土が見える。同時水には空が映っている。よく見れば向かいの山もある。水鏡の景色を意識すれば、そこには箱根の風景が浮かんでくる。一転して稲の姿に目を移すと、様々な葉姿が見えてくる。そして畔にはさまざまな草が生えている。今はカンゾウやシロツメクサが咲いている。この多様なものが混然として、光の塊になる。複雑であり、自然の姿の一断面である。確かに水面には空が映っているが、実はすべてのものがそこにあるのではなく、ただ映っていると考えてもいいのではないかと考え始めた。目に映るものという意味で、水かがみも、実態と見ている稲も、画面の上では何の違いもない。この目に入ってくる光の塊をどのように受け取るかが絵を描くという事なのだろう。
有明の月
モネは見えるものを受け止める機械になろうとした。モネの睡蓮はそういう絵に思えてきた。オランジェリーに毎日通って、抽象と写実の関係を考えていた。自分の絵の世界で自由になれるための場が睡蓮池。田んぼが自分の中で、一つの世界に再生されてゆく。絵はそういうものでなければつまらない。より自分が発揮されるための場に田んぼが成ること。モネが睡蓮池を作ったとするなら、私は田んぼを作る。田んぼは見ていて見飽きることはない。余りに多様で複雑で描けたという気がしない。田んぼを見て感じていることのほとんどは絵には現れていない。何故なのだろうか。こうやって田んぼのことを考えているだけで今も田んぼにまた行きたくなる。田んぼのいちいちに興味がある。7月に入って、田んぼはもう絵には描けなくなっている。それで仕方がないので、家で田んぼの絵の続きを描いている。田んぼを見ないで田んぼの何を描いているのだろうか。そのあたりは全くよく分からない。描いているのか、でたらめをやっているのか。
田んぼは主食の生産の場である。ここで採れなければお米を食べない覚悟で田んぼに向かい合っている。自給の田んぼはそれくらい真剣でなければ面白くない。この主食の生産場所が、絵としても面白いというのは興味あることだ。田んぼを描いている内に、水面に映っているものも、直接見えている稲も、水面に映る空も、絵の上では同じという事だ。画面という世界ではどちらが真実という事ではない。どちらも同じに見えている。もしかしたら自分の網膜に映るという事ですべては、光という意味で同じという事だ。画面の上では色であり、線であり、点であり、面であるという意味でで等価である。画面という世界の絶対性と、観念性を実感した。画面は再現しているのではなく、画面という世界観を構築する場という当たり前の了解事項にたどり着く。見て描くという事から、画面において作り出すという飛躍がここにある。絵を描くという事は見ているという視覚に始まり、自分の脳の中の絵という観念にすれ違ってゆく行為。絵はここが面白いのではないだろうか。
光る太陽は田んぼにあるライトではない。写真ではわからないが、眼も開けていられないほど眩いものである。光の混沌が起きている。このエネルギーは何なのだろう。絵を描いていることは、このもやもやした難題を解いて居るようなものだ。回答に至れるのかどうかは分からないが、問題の意味だけは理解できたような気がする。自分が生きるための食糧生産が、自分が描く場所を作り出すことでもあるというのは、私の生きてきた道を考えれば当然行き着くところであったのかもしれない。絵を描くという空の作業と、食べ物を作る色の世界。それが同じものに収束してゆくのが生きるという事の実態なのかもしれない。これは田んぼの水口である。毎日生育の遅れが気人るところである。そういう栽培する目で見ていると同時に、この泡だって流れ込む水が、光のエネルギーに吸い込まれてゆくような、不思議な状態を絵を描く目で見てもいる。