農業の多面的機能

   

農業は産業という枠では捉えにくいものではなかろうか。たぶん自動車産業であっても、産業だけではない側面もある。しかし、農業ほど幅広い意味を含み込んではいないだろう。それを農水省では多面的機能と呼んでいる。資本主義的な産業の一つとしての側面だけで、競争の原理を持ち込むことは難しいと考えている。切り捨てられてしまうものが多すぎるという事だろう。切り捨ててしまっても競争社会では構わないのだろうが、人間の豊かな暮らしという意味では、問題が出てくる。農業の環境維持機能や教育的機能地方社会の維持機能など、一緒に切り捨てられることになる。それは社会全体としてみれば大きな損失になる。農業を止めることで、老人医療費が上がるとか、社会福祉施設の新たな受け皿が必要になるとか、その果てに地域そのものが消滅してゆく。日本の社会構造のすべてに及んでゆくのではないだろうか。特に、自然環境や暮らし方の異なる国との貿易において、同じ産業の枠で競争を考えることは無理なことに考える必要がある。

かつて農業は人生そのものであり、日本教の信仰のようなものであった。日本人の生活規範は農業から産まれた。農業が精神生活を支えたと言える時代すらあった。多分そのことが、日本人と天皇の関係を生んだのだと個人的には考えている。そんな特異な観点でなくごく普通に、農業は健康法ともいえる。ジム通いの代わりだという人、歩き回って徘徊と間違えられるよりはましというので、農業を続けている人も知っている。もちろん、ジム通いなら好きだが、畑などこりごりという世代の人が多数派だろう。所が農業は楽しいという若い人も登場している。農的生活に入り身体を直したという人にも会う。特に心の病が農業によって癒されたという話は珍しくない。劣悪な人間関係やブラック企業で働いているよりは、生きて行けるなら農業の方がどれほど良いかという人が居る。こういう農業はお金にはならないが、生き方としての価値があるという事は大切な側面だ。

先日田んぼで、農の会の仲間で田んぼをやっている人の奥さんから、お米は買った方が安いのに、何故田んぼをやるのかと真顔で聞かれた。正直な人である。そういう時、田んぼが好きだからとかしか言いようがない。やはり、農業は産業ではない。価格というものがどこから生まれるかである。自分が作ったものを自分が食べるという安心は価格にはならない。絵を気持ちよく描けるようになったのは自給農業を始めてからだ。それまでは絵を商品として描いて居た。なかなか売れない商品を描いていたのだから、絵は苦痛を伴うものでもあった。しかし、自給農業を始めてわかったのは、絵が産業ではなく、芸術だという当たり前のことだ。なぜ絵を描くのかと言われれば、自分の生き方だとしか答えようがない。自分という人間をやり尽くしたいという事だろう。自給自足で生きてみたいという意味は、生きるという芸術的日々を歩むようなもので、産業の視点とは別のことになる。

こうした多様な農業にあった意味が失われてきた。芸術としての絵画が終わろうとしているのと同じだ。売れない絵を描いて居たり、割に合わない米作りをしたり、そいう生き方はいつの時代も許され難いのだろう。競争を強める世界全体の方向はどうにもならない事であろう。しかし、絵は勝手に描いて居ても、文句まではいわれない。農業で困るのは、無理やりやめろという圧力があることだ。何とか1キロ300円なら続けられたが、200円にしかならなくなって、やむなく辞めざる得ないという産業としての農家の現実がある。ご先祖の残してくれたものを守ろうとしてきたのに、無念という人も居るだろう。新規参入の素晴らしい農業法人の話が、希望として語られる。補助金もそこに集中するのだろう。やめてほしい小さな農家はさらに経営から外れてゆく。こうして美しい日本の、水田景観が失われてゆく。美しい田んぼとは区画整理された巨大な田んぼではない。美しい水田の景観は今が見納めなのではないだろうか。

 

 

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