里地里山環境保全の考え方

   

ガマの穂刈りの終わった、舟原溜池 明神岳が見える。

自然保護の思想と里地里山の環境保全の思想とは違うものである。ここを混同してしまうと、混乱が起こる。里地里山の成り立ちの根本にあるのは、その場所での人間の暮らしではなかろうか。その地域で人間が豊かに暮らしてゆくという事が前提になる。そしてその豊かさの永続性を保証することである。その時代時代に適合した暮らしの為に、自然を手入れによって改変するのが里山である。里山は地域に暮らす人達の共通の生産地である。それは水路や溜池も含めて、庭や畑に近いものと考えるべきものだ。里山の暮らしを豊かにする意味であれば、新しい植物を持ってきて植えることも、川に漁業組合がそこにはいない種類の稚魚を放流をすることも間違っている訳ではない。生物の攪乱という事は確かに起こり、帰化生物が在来の生物を追いやってしまうという事はよくあることだ。同時に農業というものは自然攪乱であり、外来種の導入が普通のことである。大半の作物が、海外から導入されたものである。鎖国の江戸時代にも新しい帰化作物の導入は続けられている。そもそも稲は弥生時代に導入された作物である。それが日本の自然環境となじみ、日本の自然ともいえる里地里山環境を作り出した。

自然保護の思想では、土ひとかけらも他地域から持ち込んではならないと考えるらしい。農業とは相容れないものである。地域のの暮らしを否定していることでは無かろうか。自然保護原理主義者の主張が農業者の気持ちを傷つけていることに気づかなければならない。手つかずの自然の保護と里地里山の環境保護を混同してはならない。里地里山の環境が荒れてきたのは地域で生業として暮らす人が減少しているからである。そのことで荒れてきている農地は自然保護の対象ではない。果樹園を作るのであれば、他所から土の付いた苗木を運び込むことがあたり前である。農業であれ、林業であれ、里山の手入れによる循環という範囲をを超えてしまい、循環が断ち切られ、衰退に向かっている。以前久野の田んぼの生き物調査をやって頂いた時に桑原の田んぼより、久野の田んぼに生き物がいないことに驚いた。しかも、20年も自然農法を続け観察していても、目覚ましい復活は見られないのだ。増えるのは外来植物ぐらいだ。何もしないでいるのでは生き物の多様性のある環境の復活は無理になっている。

里地里山の自然の成り立ち自体が人為的な2次的自然だ。すでに絶滅してしまった植物が山ほどある。子供の頃当たり前だった春蘭や、エビネを植えこんで、昔の里山状態を作ることは、自然保護ではやってはいけないことになっているらしい。しかし里山を守るためには昔の里山を再現をすることは行わなければならないことだ。いったん失われてしまった、子供の頃の自然を今の子供たちにも経験してもらう事は、新たなふるさと体験になるだろう。里山の環境はそこに暮らす人びとの庭と考えるべきものだ。昔そこにあった植物を戻すことも手入れの範囲で、植物を導入することも必要な場合もままある。太古からの自然というような、知床や尾瀬の自然保護と、里地里山の環境保全を同じものと考えることは、却って環境保全を阻むものである。舟原の溜池ではここ5年間ではガマの穂が覆い始めた。水位を浅くし、泥が溜まったためにはびこってきたものだ。人が楽しめるような美しい場所の再生にはならず、荒れ果てた沼地のようになってしまった。

舟原の溜池はここに暮らしている人が楽しめる場所にしなければ、管理の継続は出来ないであろう。昔は水辺に植えたであろうカキツバタ等の水辺の花を溜池に植えることを考えている。溜池の管理を誰もしない様になり、荒れ果ててしまえば、結局農業遺構としての溜池自体崩壊して終わりになる。それよりも溜池に水辺の植物が植えられ、花が咲くようになれば、地域の庭のように喜ばれるものになる。後の世代も管理を引き継ぐ人が現れるかもしれない。カキツバタは昔はこの地域の集落にはあったものだと私は考えている。江戸時代の園芸熱というものはそういうものだと考えている。(地球博物館の大西学芸員によると弥生時代以来、神奈川県にはカキツバタはなかったという回答である。尾瀬ヶ原にはカキツバタはある。本当に弥生時代以来神奈川県にはなかったと言えるのだろうか。)神奈川県では水辺が失われるとともに、水のある庭そのものが減少した。カキツバタは万葉時代から暮らしに溶け込んだ、日本の稲作とも縁の深い植物である。園芸植物として江戸の庶民も菖蒲やアヤメとともに楽しんでいた。蓮やヒツジ草などの水辺の植物が植えられれば他にない魅力的な場所になると思う。

 

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