水彩画の技術

   

石垣で一番美しい田んぼ。耕作されている方と話すことができた。この田んぼには冠ワシが来る。前回は見ることができた。湧水で耕作されているので、水のあるこの時期だけ耕作できるのだそうだ。石垣の2月から4月まではいちばん過ごしやすい季節かもしれない。絵を描いていて、暑くも寒くもない。田んぼも一番変化が大きくおもしろい季節になる。サトウキビは今も刈り取りをしている場所がある。特に朝6時から明るくなってきて、夜7時近くまで明るい。1時間30分ほど小田原とは時間が違う。時差というか、亜熱帯ということなのだろう。それでも4時に目は覚める。

石垣で描いていて、自分が技術というものを今になって学んでいる。初心者のような驚きがある。技術から入るのは間違いだと思い、技術とか構図とか一切考えないできた。そういうものが自分の絵に至る道を邪魔するだろうと考えてきた。禅の道を究める為には書物を読んではならないという教えがある。ところが今の自分は絵画の道を究めるということより、里地里山の空気を残したいと考える様になった。だから基本的には写生をしている。見たとおり描こうとしている。問題は私が見ているものは、里山の空気感である。田畑によって広がった空間を見たとおりに描こうとしている。それは写真では、まったく写らないものだ。空間なのだから、言ってみれば透明である。人間の眼はすごいものでこの空間の違いが見える。空間の濃度の違いというか、空間は動いている。空は動いている。風に乗って雲は動いているが、実はそれ以上に見えない、あるものが動いている。こうした様々な動きの総合のようなものを含めて人は見ている。

昼間の星のように、見えないけれどあるものは、無数にある。耕作地は機械で耕作した場所と、鍬で耕した場所では表面の形だけでなく、人の思いの違いがある。この人の思いはこもっている。何千年もの間、人間が生きるために耕してきた思いは、蓄積され立ち上っている。耕作地を作り出し、継続してきた思いが耕作地には表れている。そういう幻想のようなものが見える。実際に目に映る耕作地はそこに唯あるのだが、耕して暮らそうとしてきたので、それだけでないものが見えてくることがある。それは、空が地面に写っているような感覚である。目の前にある台地を見て描いているのだが、それは空の鏡のような気がしてくる。そのあるのか、ないのかわからないようなものを、見えるとおりに描いてみようとしている。馬鹿げているとは思うが、絵がやるべきことはそういうことだと思うのだ。絵画は装飾品ではなく、絵画以外では不可能な、製作者の世界観をたどることのできるものだ。

そのためには、技術というものが必要になった。今まではどちらかといえば、画面を見て描いていた。今は耕作地を見て描いている。それが実は風景画という言葉なのかもしれない。風という目には見えないけれど、突然草木を揺さぶるものがある。昔の人は、それを風と呼んだわけだが、風以外にも、草木を揺さぶるものはある。大地の下には水が流れている。土地に傾斜があれば、必ず水は動いている。この動きは草地などに表われることがある。草という地表の植物に、実は見えない地下の水の流れが表れることがある。百姓なら知っていることだ。それは見えてはいないが、実に大きな力を持って働いる。田んぼであれば、田んぼの水は全体でうねりのように流れている。こういうどうしたって肉眼的に見えないものを、画面で描こうとしたら、自分の作画というより、あくまで風景写生ということになる。

ここで水彩技術が重要になる。見えている実に複雑で、あいまいで、見えるようで、見えないものを、なんとしてもその通りに画面に写し取るためには、あらゆる技術が必要になった。どうしたらあの感じは出るのだろうと、あれこれ工夫せざる得なくなった。画面は立てて描くようにした。今まで水平に寝かして描くことが中心だったが、今は立てて描くことが中心になった。その方が目の前のものを写すためには都合がいいからだ。みんなが画面を立てて描いている理由がいまさらに分かった。筆も10本を使い分けるようになった。水の使い方も随分変わった。どの程度の乾き状態で次の筆を入れるとよいのか、微妙な配慮が徐々に見えてきた。10本の筆の筆触の違いも徐々に見えてきた。どこでどう使い分けるかが重要。紙の違い理解できてきた。

 

 

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