籾洗い
2016/08/05
今年も籾洗いの日が来た。例年春分の日にやることにしている。今年は地域の熊野神社のお祭りなので、翌日の21日が籾洗い日である。いよいよ新しい年の米作りが始まると思うと緊張と喜びが湧いて来る。何とか今年も田んぼが出来そうである。有難いことで、嬉しくなる。40から始めたから、27回目の米作りという事になる。まさかこんなに繰り返すとは思わないで始めた。思えば遠くに来たものだ。もう少しやらせてもらいたいものだが、ある程度分かってきたころに身体の方が追い付かなくなるようにできている。こうして繰り返して人間は生きてゆくのかと思うと、実に上手いものだ。只管打坐という。ただ座るだけ。そうして終わることができない自分だと思ったから、座禅を止めて、自分の興味だけを追い求める乞食の道の方を選択した。それが田んぼのあぜ道にはまったのだ。田んぼは実に面白い。日本の水土というものに繋がっているからだ。春分の日の籾洗いのありがたさよ。
冬の間休んでいた種籾の目を覚ますのが籾洗いである。田んぼを始める儀式である。儀式だから、意味が有るとも無いとも分からない。しかし、春分の日に目を覚ます種籾という事を考えてみると、何か意味が有りそうな気がしてくる。今日から昼の方が長くなる。さあもう起きてもいいよ。と種籾に呼び掛け起こしにかかる。そういうものじゃないかという気がしてくる。種を土に下すまで、1か月以上は水に浸けておきたい。これは実験を繰り返した結果である。安定した稲作には必要な作業になる。1か月15度以下の新鮮な水に浸けておく。井戸水につけておくと発芽してしまう。水温が15,5度あるからだ。田んぼにはいって来る川の水に浸けておく。そのお米が育つ水が一番に違いない。今まで発芽してしまった経験はないが、年々わずかずつ水温が上がっている気がするので、確実に大丈夫かどうか不安はある。川の水は毎日計測する。もし芽が出だしたら、すぐに冷蔵庫に入れなければならない。2,3日冷蔵庫に入れてから種まきするのはむしろ発芽には良いことだ。
籾洗いという言葉もいい。洗う訳ではないので、籾起こしでもいいような気がするが、洗うというところが面白い感覚だ。眠りを洗い落とす、種にある穢れを洗い落とす、という事だろう。最初に種籾が出合ってほしいのは海の水である。塩水選という事が言われるが、種もみに起きてもらうには、その種籾が実った川の水の行き着くところの海の水で目覚めるのが一番ではないか。海水は総合である。泥でやる人もいるようだが、田んぼの泥でやるというなら少しわかる気がする。海水に意味がないとは言えないと思っている。種籾を塩水選の濃度で選別する必要はない。塩を慣習で無意味に使うのでは失礼なことだ。海水の濃度で真水よりはずいぶん空の籾は浮くのでこの程度の選別で大丈夫である。苗代で苗は作るので、苗箱の育苗とは違うのかもしれない。
小田原漁港に海水をもらいにゆく。海水をバケツでくみ上げたこともある。種籾は保存庫から出して、しばらく外気に晒しておく。種籾は川の水の流れているところに沈めておく。久野川の上流の水路の取り入れ口に置いている。なかなか冷気の漂うような、神聖な場所に感ずる。この水路もの取り入れ口はすぐ石で埋まるので、水の冷たい中、取り入れ口の整備は必要かもしれない。この水路は年間通水である。もう使う人も少なくなっているが、中山間地の補助金対象の久野南舟原集落組合の管理という事になる。1キロくらいある水路の草刈り泥上げと整備をする。流れが速い為か、泥が溜まるのはほんの一部である。いよいよ、田んぼが始まる。
11時に種籾を川に入れる。水温は8.5度。昨年は10度だったから今年の方が低い。一昨年は8度だった。