野球選手の賭博好き
あまりにひどすぎないか。プロ野球の試合で選手たちが、その試合の勝敗を賭けごとにしていた。高校野球にまでお金をかけていた。但し、掛け金が少ないから賭博とは考えないというのだ。その額は1試合平均で15万円だそうだ。それが少額であるという感覚が普通だろうか。庶民感覚とは別世界である。しかも、お金をかけることで勝負に対する意欲が増して、優勝できたのでそれが慣例化したというのだ。そのことはどのチームもわかってはいたが、悪いこととは考えていないという事である。今後プロ野球というものは見ない。と言っても前からめったに見ないのだが。若い頃将棋をやっていた。お金を賭けないとやる気にならないという人に時々出会った。実に嫌な思いがしたものだ。ゲームそのものでは面白さが少ないので、金銭を賭けることで、面白さと本気が引き出せるという事なのだろう。野球の面白さを極めれば、それ以上のことはない。
親を名乗り出る者がいる。試合に勝てば全員から五千円を受け取り、負ければ全員に千円ずつを支払う。一軍登録メンバーは投手が十二人、野手が十六人程度であることが多くそれぞれ約六万円、約八万円が動いていたことになる。連勝中は親は変わらず、勝ち続ければ受け取る総額は大きくなった。公共野球では優勝校を当てたものが総取りという事らしい。プロ野球の選手は勝負好きに違いない。子供の頃からそういう土壌で成長したがために、試合ごとにお金をかけることを不思議とも思わない世界になったのではなかろうか。このことは分かっていたが、賭博とは言えないので公表しなかったというのだ。これが賭博でないと言えるのだろうか。繰り返して書いてきたことだが、政府が公営賭博に依存しているという事がおかしい。街の至る所にパチンコ賭博が存在することがおかしい。カジノを作ろうという事がおかしい。こんな社会状況だから 、プロ野球賭博は当然のことになる。
まさか高校野球の選手が同じことをしていなければいいが。こういう悪ところを子供はまねするものだ。確かに賭博はなくなることはないだろう。またなくす必要もない。賭博は健全な暮らしを育むためには悪い影響がある。賭博のようにあぶく銭を得ようという事に対する倫理を成立させることだ。あぶく銭を目指すことを表向き自慢できないような空気を作ることだ。賭博は陰でこっそりやるようなことだという意識を育てなければだめだ。地道に働くことが瑞穂の国の倫理観だ。勤勉の裏腹に博打があるという事を考えておく必要がある。この点では私の子供の頃のこの国の空気とすっかり変わってきた。パチンコを健全娯楽というとらえ方になった。この日本人の変わり方は、田んぼを止めたからである。一儲けすることを目標にしている人が多すぎないか。田んぼをやるという事は、今年もつつがなく、去年のようにあればいいと言う生き方。
競争社会は競争に勝つことが目標になる。勝つこと、優勝することで評価される世界。しかし、勝者がいれば敗者もいる。敗者を弱い者、努力を足らないものとして、下層に位置づける社会が問題なのだ。負けるという事も、勝つという事と同等の意味が有る。生きることの何たるかを蒔けることで知ることでなければならない。私は絵描きというものを目指していた。しかし、絵が売れることはなった。その売れないなかで、つまり敗れる中で、「私絵画」というものにたどり着いた。売れていれば知ることは出来なかった、絵を描き生きることの意味である。座禅をするという事は、悟りを開くために行う訳ではない。ただ座るという事であって、何かを成し遂げるというような価値観から、抜け出ることなのだろう。絵を描くという事になり切ることでそれ以上も、以下もないという事だ。資本主義社会は競争ではない世界があることを見失い始めている。そして、競争原理を教育の基本にしている。それが賭博蔓延社会になっている原因である。