篠窪の風景を描く
相変らず篠窪を描きに行っている。冷静に描いたり、熱中して描いたり、その場を見ていて描きたくなったようにただ描いている。何かに近づいているのか、おかしなところに入り込んでいるのか。よく分からないのだが、描きたい気持ちが続いているので、描き続けている。今度水彩人の研究会があるのでその時には持ってゆきたいと考えている。人に見せることで、少しやっていることが確認できるのではないかと思っている。風景はこのところ急速に色が変わってきている。落葉樹の梢の赤みが増して来て、霞がかかったように見える。枯草の中にわずかずつ緑が見えるようになる。地面の色も強い光に反射して輝きを増してきている。
なぜか固有色という事を考えている。すべての色は光の反射で見えているのであって、そのものに備わっている色などない。と考えることもできる。色を移ろいやすいものと感じるとすれば、色は光の反映と見えるだろう。そして物という存在の実在を強く感じるのであれば、そのものに色は備わっていて、光がなくとも色というものは固有にあるとも考えうる。絵画における色は見ている側の問題と考えた方が良いと考えている。地面を描いていて土の色を見れば、作物に良さそうな土だというのが、百姓には最初の感想である。その時は土の持つ成分の比率とか、微生物の量とか、腐植の含有率とか、を総合する生命保持力の様なものを見ている。当然色もその観点の材料として見ている。それが良い土と見える結果になる。良い土の色。これは光によって変わる色ではなく、朝の光ではこのような色。真昼の光ではこんな色。というように光の違いを超えて、出来るだけ光の変化を除いて一定の評価基準で色を見ている。これが土建屋さんならまた違う分析眼によって土の色を見るのであろう。金鉱堀なら目に見えないシグナルが見えているかもしれない。
写生に於いてはどんな光に当たるかによって、土の色は変わる。夕日に染まれば真っ赤な土の色になる。ここで絵描きが見ている土の色の見え方は、一体どんな観点になるのかであろうか。私は百姓の眼で土を見ようとしている。絵描きの眼の方は色を自分の思想というか、哲学というか、世界観で見ている。自分という存在をそこに反映させて物を見ようとしている。だから物の眼は移ろう光を追い求めながら、そこに介在する変え難い自分というフィルターになる眼を確認している。だからこそ、モネの描いた絵がモネの絵になっているわけだ。そのモネというフィルターを絵として味わい感動する。そのフィルターはものという人間の何にかを強く反映している。色を考えた時の固有色とは何かである。モネのフィルターが見た、つまりモネという絵画眼が見通した色であって、光の移ろいをたどりながら、移ろわないところのモネという眼をより強く意識させる結果であり、客観色ではない固有色が存在する。
誰かの見た見方から学んだものの多いいこと。自分が見ているという事は、変わりはないのであるが。人の絵の見方に惑わされているのであれば、自分の眼というものに近づくことはないだろう。自分の眼というものは、たぶんモネの眼ほど優れたものではないに違いない。それでも里地里山を作り出した、日本の百姓の眼で風景を見ていると思う。そこに至ることが出来れば、本望である。篠窪の今描いている風景が描けるのは、あと1か月ぐらいだと思っている。新緑が風景を遮ることになる。草が地面を覆うことになる。地面がよく見えている間に、何かが描ければと思うのだが。今年も今の調子では、前進とまでは言えないだろう。