石原 瑞穂さんの作品展
政治的表現の絵画である。デモを描いた絵である。そうしたことから書きだせば、それだけで拒否反応を持つ人もいるだろう。いわゆる絵画趣味の人であれば、それは絵ではないとみる前から思うかもしれない。バラの美しくさを写した絵であれば、美しい絵という事になる。しかしデモを美しく描いた絵を、美しい絵とは言わないだろう。梅原のバラであれば、美しいバラではなく梅原龍三郎という人間が描いた造形である。花のような形をしているとは思うが、何も美しいバラをそこに見ようという人はいない。ただの美しいバラなら、生のバラが一番美しいのである。ゴッホのヒマワリを見て美しいヒマワリを期待した人は、グロテスクなひまわりに驚くことであろう。ところが、梅原やゴッホは花を描くことで、自分の世界を描き出している。そしてその描き出した世界観が人に伝わる。デモを描いた石原さんの絵はデモという情景を描いて、石原さんの世界観が表現されている。
花を描くという事は当たり前に行われる。絵を見る側も、梅原の絵を花の絵を期待して見て終わりの人もいる。それに梅原の名が無ければ、多分へたくそな花の絵だ、花弁が硬すぎるなどとしか思わないことだろう。絵画では花は造形の材料に過ぎない。デモが造形の材料であっても何ら問題はない。ところが政治的メッセージ性というものが、大問題になる。毎年アンデパンダン展を見に行くと、そうした絵が必ずある。ところが絵ではない。メッセージはあるが、絵画ではない。ヘタだから絵ではないという事ではない。梅原だって下手だ。ヘタとかうまいなら、下手は絵の内である。絵画であるかどうかの境目は、描いた作者が立ち現れるかである。作者の世界観がそこにあるかである。作者の世界を見る眼が画面を見つめているかである。描くものが見ているかである。
デモに行き、集団というものを自覚する。それぞれの自分という個が寄り集まり、類というような塊になる。この塊の様々な意思が、様々なまま一つになる。このデモ集団という塊は、空しいという息を吐いている。なぜこんなバカバカしいことをしなければならないのか。愚かな政治世界にデモなどで立ち向かったところで何にもなりはしない。何かになる訳ではないにもかかわらず、やらない訳にいかないという自己矛盾。ほかに手段のない絶望の中での陶酔の様なものがある。暗い情熱という奴である。今に見ていろ、でもなく。完全な諦めでもなく、この類の塊にささやかな同類の安心を感じながら、立ち向かう政治という鵺。パレードと呼ぶにしても、何の喜びもない空しさだけの世界。どれほど糠に釘であれやらないわけにもゆかない意思。その意志が一塊になる、悲しさに満ちた賑わいとでも呼べばいいのだろうか。
石原さんの絵はそのデモ世界観を見事に絵にしていたのだ。美しい絵である。しかも石原さんが立っている。見事に政治的なメッセージを絵にしている。絵というものはこういうことも可能なのだと目を覚まされる驚きがあった。絵以外のものではこの表現は出来ない。デモの写真というものは良くあるが、デモの情報は伝えていても、デモの本質を伝えているわけではない。現時点のデモは参加したものがわかるいまだかつてないものだ。デモがテレビで流されても全く違うもののようにしか映らない。参加者の目線がない、いわば傍観者の映像である。デモのことを書いた文章を読んでもデモの中にあるあの感じはなかなか、歯がゆい。獲物中に立ち尽くす感覚が、絵で描いて初めて成立したものだと思う。秦野ぎゃらりーぜんで2月15日まで開催されている。ぜひそのことを確かめてもらいたいものだ。