五輪エンブレムの盗用問題

   

五輪エンブレムは盗用ではない。間違いなく偶然類似しただけのものだ。それぐらいみてみればわかる。世界中を探せば、これくらいの類似はいくらでもある。とくに文字をデザインのもとにしているのだから、Tの字が似ているのは当たり前すぎる。良い形を求めてデザインするのだから、人間の発想など似て当たり前のことだ。むしろ、このデザインは前の東京オリンピックのデザインを踏襲している。発想の原点がそこにある。それも当然のことで、前回の東京オリンピックのポスターデザインは、亀倉雄策という人のもので、日本のデザインの大きな山になっている。それと比べてしまえば、今回のものは、装飾過多でかなり劣るものだ。それはこういう時代だから仕方のないことでもある。絵の世界などを考えれば、50年前のほうがはるかに良い絵がある時代だった。私も含めてのことだ。

エンブレムなどと気取って言うから、ポスターのこととは最初思わなかった。外来語を使って格好つけるのもどうかと思う。デザインというものは、経済と直接結び付いている。商業デザインとか工業デザインとかいうように、売れるために良いデザインを行うということが普通のことだ。だから盗用問題など出てくる。こんな版権の様なものは一切不要というのが私の考えだ。自分がいいものを作り出せば、誰でもが自由に使えばいいことだ。喜ばれるならうれしいことではないか。それをケチくさく、似たものまで使ってはいけない。こういう発想がしみったれである。お金にならなければいいものを作らないというような気持が実に嫌だ。それが資本主義のいやらしいところだ。まあ人間のいやらしさは別段資本主義とは関係ないが。知的財産権というものは、人間の悪い習性を増長させている。

絵のように商品化の波にのまれて、芸術ではなくなってしまったものもある。売れるものを描くのは難しいが、売れているものを描くのは簡単だ。このように教えてくれた金沢の先輩がいた。流行歌の作詞家というのも詩人なのだろうか。詩人と言えばお金にならない仕事というイメージだが、作詞家と言えば金満家のイメージ。詩というものが芸術として存在しているのだろうか。絵というものでいえば、すでに表現芸術としては存在していないと考えている。絵画が社会に影響を与えるようなものではなくなっている。そういう時代がどの程度あったのかも疑問なのだが、社会に意味ある表現手段として主張しようと、もがいた時代はあった。絵画は装飾として価値はあるのだから、工芸品という意味では生き残っている。芸術としての絵画を生み出そうとした、各時代の努力は装飾美術とは別に、命脈を続けているのかもしれない。

オリンピックエンブレムを盗用と申し出た人の卑しさがすごい。もしこの人が本物のデザイナーならば、自分のものを見ていないくらいは分からなければだめだろう。見たとしても活字のTぐらいの意味だ。それを似ているから一儲けしよう、あるいはこの騒ぎに便乗して名を売ろうということかもしれない。いやらしい話だが、こういうことが通用するのが、今の世界の常識なのだ。そしてアメリカはこの知的財産権を、制作者死後70年のアメリカ方式を世界一般に押し付けようとしている。著作権に関する国際規約であるベルヌ条約では50年である。ディズニーが生きている間ならまだしも、死後70年たつまでそれを人には使わせないなど行き過ぎだ。ディズニーの恩恵がある70年の間に、次のディズニーにしがみつく利権。遺産でもうけようという連中が情けない。それがアメリカドリームの社会だ。たぶんTPPではこの点では強引に70年に決まりそうだ。日本はTPPに加盟することで、また日本というものを失う。

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