「まれ」に出た養鶏場と麦畑

   

NHKの連続ドラマは今は「まれ」というものをやっている。能登の塩作り民宿で育った主人公が、横浜のケーキ屋さんで成長してゆくというドラマである。そのケーキの素材の卵に、良い卵を作る養鶏場ということで、養鶏場と麦の会の麦畑が、ロケ地として使われた。いつ放送されるのかと思っていたら、昨日ついに出ていた。養鶏場の親父は泉谷茂さんだった。私と同じくらい汚いところと、養鶏場の親父に見えないところが、良かった。テレビがよい卵の養鶏場を探してここに行き着いたというのは、よくわかる。産卵鶏の放し飼いの養鶏場が他にないからである。今は檀上さんという方が、養鶏をやっている。私がやっていた時とは、ずいぶん違う養鶏になってきている。私は最初から今まで、養鶏については口を出したことがない。だから、私のときとは、空気の違う養鶏場になった。それはとても大切なことだと思っている。それでも、同じ場所で、同じ鶏舎でやっているのだから、大きく変わらない様子は写っていた。下の麦畑が出てきた。麦畑の上の駐車スペースで写していた。

テレビで見てもなかなか美しい場所だ。実際にはもっと、もっと良いところである。養鶏場でも、田圃でも、畑でも、美しくなければならない。いわゆる養鶏場で、いつまでも居たくなるようなところはない。だから多くの人の養鶏のイメージが「うるさい、臭い、汚い」という嫌われる施設である。しかし、本来鶏は美しいものである。江戸時代、美を求めて作られた鶏だ。日本の天然記念物なのだ。卵を食べるというような、世俗を超えて作られた鶏なのだ。日本の文化のひとつなのだ。私は卵を販売して、生計を立てようとした。しかし、美しい鶏で養鶏をやりたいと考えた。それが笹鶏である。自分の作った美しい鶏で養鶏がやりたかった。汚い鶏小屋ではなく、美しい鶏小屋で鶏を飼いたかった。それが生計を立てることと、両立しないということは分かっていたが、それが私がやりたい事である以上進む方向は決まっていた。

それでも、おかげ様で25年。何とか養鶏業で生活を立てられた。食べてくれた人たちの現代まれなる協力のおかげだだと思う。よく、今時こんな養鶏を許してくれたと思う。自分を磨き、自分を貫けば、何とか理解してくれる人はいるものだと思う。そう現代まれ、というのがこのNHKドラマの狙いなのだろう。師匠のパティシェは採算など全く考えないで、ただ、最高と自分が考えるケーキにまい進している。どうすればより良いケーキをそれだけの人だ。何でも売れればいい物だという、世間の風潮の中に、こうした採算を度外視したものの価値を伝えようとしている。私の作っていた卵と同じだ。良い卵とは、良い雛がかえる卵だ。この一念でやっていた。美しい鶏が何世代も繰り返される、その要の卵である。人間の味の好みなど、どうでもいい。人間は良い卵の味を、おいしいとはどういうことなのか学べばいいと考えていた。

良い卵を思うとき、親鶏の幸せな日々がどうしても必要になる。自由に暮らしていなければ良い卵など産めるわけもない。安心して暮らしていなければならない。狭い小屋ではだめだ。獣に襲われるようではなだめだ。それは、あの美しい麦畑にも言える。麦はなにも、景色を見ているわけではない。しかし、美しい麦畑をとことん求めた結果が、良い麦になるはずだ。私はそういう麦畑の麦が食べたいのだ。自給農業とは、そういう農業だと思う。美しい場所で作る作物が、良い作物なのだ。作る人が楽しんで作る作物が、良い作物なのだ。こういうことは経済とは、別物に思う。確かにこんなことを考えると、農業では生きてゆけない。しかし、私は何とか生きてきた。あと10年くらいはこうしていることができるかもしれない。人間が生きるということが、どういうことなのか。鶏と同じだ。やりたいことを貫いて、楽しく生きなければ、人間の本当のところには、行き着けない。

 - 自然養鶏