ダメと認めるところから

   

このブログでは、思いついた事をそのまま書いている。笹村という人間がが生きている日々の暮らしの感覚をそのままに書こうと思っている。当たり前の日常感覚の反映でありたい。聞きかじりや、取り違いや、もう様々な適当な積み重ねの中に生きている。間違いや誤解だらけの恥ずべき日々である。普通に生きていればそんなものだと開き直っている。その普通の人の感じた事をそのまま記録しておくことも、それはそれで必要なことではないかと思っている。正直言えば、その方が大事だと思っている。専門家の意見というものは、あくまで専門家であって、普通の人とは距離がある。そして、普通の人はあまり自分の日々の感想など書き綴ったりしない。そこをあえて書いてみている。鶏の事。稲の事。そして絵の事。これについては、専門家意識がある。専門家と言っても、実践家という意味であるが。

鶏、稲作、絵画を実践してきた結論として、本当の事は一つではなく、多様だというである。稲作の事で言えば、ラジコンヘリーからの、空中種まきが報道されていた。鉄でコーティングするのは種を水中に沈めるためだと、語っていた。これも嘘ではないとおもうが、そもそも種籾は塩水選というもので、沈むものを選んで使っている。しかし、そうでもないかもしれない。ラジコンヘリから落として、種を泥の中に少しでも深く埋め込みたいのかもしれない。それなら代かき直後の濁り水状態で蒔いたほうがいい。その方が稲が倒れにくくなる。しかし、主たる理由は酸欠で種が腐ってしまうのを防ぐために、鉄でコーティングしているのだと思う。鉄の酸化を利用するのである。事実は複合的。田んぼの耕す深さは、深くしろ、浅くしろ、そういう正反対の事が、正しい事であるのが実践の世界だ。10俵以上お米が採れたから、正しい農法だとも言えない。それが5年は継続されて、初めてまあ一応の農法であるらしいという程度である。東洋的4000年の伝統農法の意味がここにある。

自然農法には、福岡農法という有名なものがある。所がこの農法を他の人がやると、上手く行かない。だから、嘘だと言う人すらいた。しかし、福岡さんがやれば何十年も10俵以上で上手く行ったのだ。すべての真実はまさに多様だ。つまり、実践では自分流を見つけない限り、どうにもならないものだ。それは、養鶏でも同じことで、私がこうしてうまくいったという事を伝えても無駄だ。一つの事実を鵜呑みにする事は無駄以上に害悪になる場合がある。伝えられるのは、結果ではなく考え方の方ではないかと思う。このような考え方で、考えれば、その人に相応しい方法が見つかるかもしれないという事以外示す事はできない。私の書いた自然養鶏の本はそういう本である。本当に参考になると言う事はそういう事ではないかと考えている。

従軍慰安婦に関する歴史的事実についても同様である。オウム事件でも、赤軍派の事件でも、真実は当事者自身すら、闇の中に揺れ動くものである。それは人間は複雑で、揺れ動くいい加減なものだからだ。人間自身の真実が揺れ動くのだから、歴史的な真実と言っても、実に多様である。従軍慰安婦だった人の受け止めも、ときによって、時代によって、揺れ動いて当たり前である。まして、朝鮮と日本という、歴史的な複雑な要因まであるのだから、本当の所と言っても、そう簡単ではない。しかし、はっきりしているのは、謝罪してもらいたいという気持ちだ。これには間違いがない。理由とかではない、やりきれない思いを抱えて、生きてきたはずだ。その人が謝ってほしいというのであれば、謝るのが人の道だ。そこに打算とか、真実は違うとか、色々加えるのでは謝ることにもならない。謝る事で少しでも気が収まるのであれば、謝り通し、許しを請う事が日本が行うべきことだ。

 

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