日本国の移民と棄民。
日本の歴史の中に、棄民と呼ぶべき移民がある。明治政府による会津藩の下北への移住。江戸時代の琉球王国に対する薩摩藩。そして琉球王国による離島への移住指示。いつの時代も生産力と耕地面積の限界が、人口の増加圧力に迫られていた。中南米移民のなかには、殆ど棄民に近い悲惨な結果が随所に存在する。満蒙開拓団は、軍事的目的を伴い、さらなる悲惨な結果を産んだ。この背景には人口増加圧力が大きかった。いずれの場合も、食糧生産の限界が要因である。人口は常に増えて行くものであった。江戸時代では、初期の人口ははっきりはしないが、1500万人で江戸末期で3000万人程度というのが、一般的な推計の様だ。江戸時代も初期に急増があり、その後停滞する。明治期に入り、さらなる急増が起こる。2008年の日本人の最大人口12800万人。最近までの人口増加の最大要因は医療の進歩である。子供が死ななくなり、寿命が延びたためである。
人が増えると、家のというものの資産の維持が難しくなる。家という観念が、最大の価値観であった。封建主義という家を守るという価値観に縛られて、日本人は生きてきた。家を守る、部落を守る。村を守り、藩を守る。その為に家の分家が行われる。一軒の家が、3反の農地を持っていて、子供が3人居れば、一人は、その地域から出て行く以外に道がない。江戸時代は、人間の定着という事が主要な政策になる。農家は農地に限定された存在である。農地を開墾して広げない限り、人口の増加を受け入れる余裕はない。それ以外に藩の経済を広げる手段が無い。江戸時代の人口の倍増は農耕地の拡大と、農法の改良の範囲の限界を示している。その後の人口増加は、明治初期と比べて、農業から工業生産に移行し、海外輸出が始まるという事だろう。食糧生産という意味では農地が増えたということより、機械力の導入という事が大きい要素だろう。山梨の境川地域でも、移民した家族がいた。ブラジルに行ってとても良いらしいという噂話は良く聞いた。
故郷に錦を飾るわずかな人達と、音信不通になる多数の人がいたのだろう。今になって移民2世、3世が日本への移民をしている。政府は1970年代まで移民政策を続けていたのだ。人口増加圧力も、日本帝国主義が捻じ曲げられ、アジア進出に繋がる背景である。国威発揚と人口増加。軍人というものは、農家の余剰人口の吸収先になる。限界まで軍備費につぎ込み、農村の疲弊は江戸時代と比較できないほど、ひどい状態になった。貧困農村出身者の多数存在した軍人の考えが、海外進出に眼が行くようになったのは、当然の事とも言える。現在やっと日本の人口が頭打ちになり、中国のように一人っ子政策などしなくとも、何とか収まりホッとしている。にもかかわらず、政府は人口が減少する事を、問題としている。その理由は、消費者の減少で景気が悪くなるという、企業家の突きあげのようだ。人間を消費者として見ているにすぎない。棄民と何ら変わらない国家経営の意識である。
日本という国土に相応しい人口は、6000万人程度であろうか。それが現在食糧自給が出来る人口と思われる。人口は食糧生産量に従うのが自然な基本であろう。それは世界中どの国もその様になるのがいい。今のまま行けば世界中が人口増加になり、人間は暮らしにくくなる一方である。今の、10分の1くらいの人口であった日本の時代を想像すると、江戸時代の初期という事になる。人口は10分の1でも立派な日本国である。世界に誇れる桃山文化を作り出した。江戸時代鎖国をしてやってゆくことを考えたのは、自然の成り行きでもあるし、正しい選択であっただろう。当時日本は銀生産による輸出で、豊かな国であったのだ。それで一気に社会インフラが整ってゆく。自給的に暮らす安定基盤が生まれた訳だ。江戸時代の250年に育まれた、豊かな文化こそ、次の人間の暮らしの可能性を秘めている。