地方の暮らしの素晴らしさ
地方が消滅して行くという見方は、中途半端な状況の見方である。日本の様な地域で、全く人が住まなくなった所で、地域が消滅した訳ではない。一日で歩いて行けない所など日本にはない。人口が減少して行くのは、自然の良い流れであるし、無理して人口増加を計る必要などまったくない。むしろ、6000万人位まで減少する方が暮らしにとっては良い。出来る事ならば3000万人なら理想だ。桃山文化を作り出した時代は1500万人の日本人だ。世界との競争に躍起となって、日本人である事を捨ててしまうぐらいなら、経済競争から降りてしまい、日本人らしく暮らしてゆく方がはるかにましである。日本がそうなる訳もないから、自分だけでもそう暮らしてゆくつもりだ。日本人であるという事は、先ず稲作をして自分の食べるものを確保する暮らしだ。日本の地方に人が減少すれば、むしろそれはたやすいものになる。そのどこかで暮らす事が誰にでもできるようになるのかもしれない。自給生活を覚悟すれば怖いものはない。
自給生活をすれば、何とか生きて行けるのが日本のすばらしい国土である。地方が消滅するという話は、都市生活を望む都会的な地方が消滅すると言う事だ。むしろ地方の良さを味わおうと思えば、消滅してくれる方がありがたい側面がいくらでもある。まず、地方には仕事がないという事が言われる。ここでいう仕事は、勤め先がないという意味の仕事だ。何処かへ勤めて暮らそうと言うのは、まず、都会人的な発想なのだ。人間が生きるという基本から言えば、勤めると言うのは、一つの手段にすぎない。自分ひとりで生き抜く知恵があれば、会社がなくてもいい。逆に地方が消滅する一番が、適度に勤め先があると言う事による。地方の部落の暮らしというものは、勤め人になる事で成立しなくなった。別段村の水路の草刈りをしなくとも、暮らせる。村の鎮守の森が荒れた所で暮らしには関係がない。ごみだって、役所が取りに来る。つまり、勤め先が出来たことで、地域での暮らしは失われた。
消滅と呼ばれる地域は不便で、病院はないし、商店もない、都会的でない。所が、そんな所にこそ、人間らしい暮らしが作れるという事は、想像できる。。あちこちで暮らしてみたが、山の中に入れば入るほど、人間らしい豊かな暮らしがある。朝起きて朝日を浴びる一つでも、山の中と、都会では太陽が違う。山の中の太陽ほど素晴らしいものは他にない。思わず手を合わせると言う事になる。そこに湧きでている水で顔を洗い、朝一杯の水を飲む。これこそ生きているという実感である。3つ星レストランでのフランス料理より、はるかに美味しい食べ物を、毎日食べているという実感がある。窓からの目の前の景色を絵に描きたくなる。日々緑の色の変化だけ見ていて、あきる事がない。毎日三線鳴らして唄を歌っても、隣の家に聞こえない。犬、猫、鶏と、共に暮らす。地方の暮らしの方がどれほど豊かなものかと思う。
人間が生きると言う事は、どういう事なのかを考える。65歳まで生きて来てみると、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という事が実感として、分からざる得ない。残り少なくなれば、誰だってそんな気分になる。何とか自分というものを知り、自分の見ている世界を、描く事が出来れば、それだけでいいと思う。その為には、人との競争は関係ない事になる。マチスといえども、代わりに絵を描いてくれる事はできない。自分を突き詰めることの面白さ、醍醐味は地方の暮らしである。そして友遠方より来る。この遠方感が地方の暮らしである。それくらいの人間関係の距離で生きて行けるのが、次の地方の暮らし。地域の地縁的共同体の代わりに、自主的なゆるやかな目的意識で繋がる、たぶん、利益を求めない、互いの人格を尊重する人間関係ではないかと思っているが。地縁的共同体に変わる、新たな遠くの友くらいの関係の共同組織を作り出す必要がある。