資本主義の展開

   

資本主義という経済システムは、共産主義と較べることで、初めて明確なイデオロギーとして意識された。そもそも、人間の暮らしは一貫して資本主義的に動いてきたのだろう。江戸時代であろうとも、資本主義の枠をそれほど外れる経済だとは思えない。お金を貸し利潤を得る事はどの民族でも、経済活動が盛んになればおのずと、出てくる。これを悪事として戒律で禁じている宗教もある。人間と言うものは禁じなければならないほど、利潤を求めると言う事なのだろう。人間はほっておけば、資本主義をやるものなのだ。それをいかに制御するかの一例が共産主義である。また宗教的戒律なのだろう。資本主義の根底にあるものが能力主義である。人間は競争しなければ、努力をしない。大金持ちが成功者で、成功者になるために人間は努力する。こう考えて競争を良いものと考えようと言う事になる。

能力主義を悪いものだと言っても、納得いかない人の方が多いだろう。就職試験や入学試験をやめれば、努力をしない人間だけになるし、会社も学校もどうにもならなくなるだろう。というのが世間的見方ではないだろうか。だから、能力主義を能力差別だと主張すれば、違和感を感じる。しかし、人種差別、性別差別、等と能力差別も同様のものと考えたい。最後の差別が能力差別になるだろうと考えられているそうだ。働かざる者食うべからず。という言葉は当たり前のことだとおもう。資本に働かせて労働をしない人も、日常の暮らしから考えれば働かざる者である。家の庭から金が出てくると言う人も、働かない人であろう。親が大金持ちで、その子孫の働かない人も食べるべきではないだろう。、働く事は働くのだが、その効率が何十倍も違う場合どうなるかである。

ぐうたらでいいとは思わない。人間働くべきである。問題は働いたとしても、1時間の労働が、らくらく1万円の成果を生み出す人と、必死の努力が10円位しか生み出さない人の違いである。100倍の能力差を、人間の価値の違いとして考えてはならない。周りの人にしてみれば、ノーベル賞をもらうような人の方が有難いに違いない。恩恵も受ける事が出来る。自分の食い扶持すら何ともならない人は、いわば困った人である。しかし、同じだと主張したい。観念として同じと言うのでなく、人間の暮らしはこうした様々な人間の総合で出来上がっている。共生していると言える。重要な事は、すべての人が健全に、その能力を発揮したいと言う気持ちになりうる集団に生きることだ。どうせ努力してもダメだとか、いくら働いた所で楽にならない。こういう社会環境では能力差が悪い結果を産む事になる。能力は乏しくとも自分なりに精いっぱい生きよう。こういう気持ちになれる社会の実現を望む事は、資本主義でも不可能なはずはない。

韓国社会が歩んでいる道を見ると、競争論理が徹底された場合、どういう社会になるかの一例を示している。随分前からその予測を書いてきたが、年々誰の目にも分かるようにゆがみが表れてきた。そして日本もその後追いをしている。世界の経済競争に負けないためには、韓国型社会しかないというのが、安倍政権やり方に見える。誰にでもチャンスのある社会の実態は、チャンスのある人だけにチャンスがある社会だ。競争の努力は、努力して努力が生きる人と、努力が無駄になる人がある。大半の人に能力がないのだから仕方がないと、諦めて生きろという社会になってゆく。そんな社会では一時の活力しか出てこないのは当然で、韓国の限界が見え始めている。日本は、焦りから競争社会へかじを切ろうとしている。人間をもっと信じて、その人がその人らしく頑張れる社会を目指すべきだ。それが健全な資本主義社会のはずだ。人間は競争させなければ努力をしないという思想は、人間を奴隷を見る目だ。現代社会では、会社と言う資本に、人間が奴隷化されているともいえる。

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