小さいという価値
地場・旬・自給の行き着くところは、小さいという所である。小さいという価値は無尽蔵である。小さいから目だたない。隠れている訳でもないが、大して気にされることもない。世の中に影響もかかわりも少ないので、無視してもらえる。小さいという事の価値はいくらでもある。小さいから、社会全体がそうならない限り世の中に影響が起きない。全体がそうなれば、それは悪い事ではないという事なのだろう。あしがら農の会は一人ひとりにとって、暮らしのついでのような究めてささやかな活動である。だから目をこらさなければ何をやっているかもわからないし、地域の農家のおじいさんにも許してもらえるレベルの活動である。活動を広げようとした事は、かつて一度もなかったし、活動を継続しなければとか、整えようなどという形で誰かが力んだ事もない。ただ、必要最小限で続けられればそれで良いという事だ。社会運動にならないという事には、むしろ気おつけてきた。行政にかかわりを持つ事も出来る限り控えた。
自給の活動で一番困るのは、無駄な会議で時間をロスすることである。自分が食べるお米の為に、集まって会議があったり、何か集会に出たり、表彰式の動員が掛けられたり、そういう事をどうかわすかが一つのコツだと思ってきた。行政は自分達のやるべき仕事をいかに縮小するかで、肩代わり先を常に探している。市民協働と言いながら、自分の役割を逃れようとあがいているようなものだ。言葉では市民活動云々である。市民活動を奨励すると言う事は、悪い事ではないから、つい動かされてかかわると、無駄な集まりが無限に広がる事になる。市民活動と言うのは、なんの利害も責任もない人間の集まりだから、純粋に民主的な運営が必要になる。手間が掛かりすぎるせいか、議論を省いた独裁で運営される。ボランティアの仕組みが未熟と言う事なのだろうか。民主的であるという事は、実に手間暇がいる。前提としての価値観が違うし、参加の動機が全く異なる人の集まりになる。無意味な時間を浪費する相談の集まりばかりを繰り返す事になる。
そして本気でやろうとすると、結局はその莫大な労力が何処かへ空しく消えてしまう。そこで、小さく目立たない事で、潜行するのが一番という結論になる。大切な事は目立たないでも平気な神経である。世の中には目立つことを生きがいにしている人が結構いる。やっていることを評価されたいという動機であろう。評価されたいから、世間の価値との関係が気になる事になる。例えば耕作放棄地の再生を目的にと言うような事は、評価されやすい。しかし、本当の所を言えば自分が自給したいと言う事につきる。社会的目的は隠れ蓑の様なものだ。地場・旬・自給とは違う価値観で関わる人は、だいたいに10年は続かない。いつの間にか去ってゆく。勿論それでいいのだが、そういう通り過ぎて行く人がいると言う事は現実である。期待はするが、依存はしないという事なのだろう。
20年前にも農の会と似たような市民活動があった。随分大きな組織でやられているらしいものもあった。そういう活動は、その後どうだったのだろうかと思う。思うに、むしろ目立たず、小さく続けている活動の方が、今も継続しているのではないだろうか。それは世の中に影響も与えず、評価もされず、自分がやりたいのでやっているという事が一番の力ではないだろうか。笹村農鶏園は最小限の農家形態である。グループとの連携を取りながら、小さな自給を行っている。市民の組織としては、小さいという事はとても重要なことだとおもっている。農の会で言えば、田んぼごとに別組織のように独立している。機械利用の為に連携はしているが、組織全体で動くと言う事はない。その前に組織全体と言う物が極めてあいまいである。必要最小限の連携でとどまっている。勿論世間的な活動形態にしたいと考えて、色々工夫するグループもあるが、10年経ってどうかという事だと思っている。慌てて判断した所でどうにもならない。小さいという価値を忘れないでいる事は重要である。