お米は何処から来たのか
志賀高原 田の原湿原 中盤全紙 7月の田の原湿原である。緑の色がだいぶ濃くなっている。子供の頃、標高350メートルの所で田んぼをやっていた。長野には1000mを越える田んぼがある。松原湖で田んぼをやると、採れるない年もままあると言われていた。
日本は瑞穂の国であると古事記に記載されている。最近の研究では日本列島の稲作の起源は縄文晩期と言われ始めている。2700年前から田んぼの稲作が始まっていたことが、分ってきた。稲は7000年前、中国浙江省余姚市にある河姆渡(カボト)遺跡で耕作されていたことが分ってきた。長江河岸にある野生の稲が、徐々に耕作という形を産み出してきた。7000年も昔に稲作が始まっていたことが分ってきた。長江中流域の河岸に野生の稲があった。最初は採取的に集めて食べたのだろう。こぼれた籾から芽が出たのかもしれない。それが徐々に稲作へと繋がり、さらにそれが田んぼという特殊な形態の農業に育まれる。日本にはその後、4000年を経て、伝わることに成るのだが、朝鮮半島経由という考えと、南の島を経て伝わってきたという説があるようだ。いずれにしても南の方で始まる稲作が徐々に北上して関東に伝わってくる。稲作は中国から来たと確定された。
天皇家は水土に関する知識と、能力を、先端技術者として、中国からの渡来技術として、保有していたと思われる。この水土の技術と、稲作とが結びついて、徐々に日本という瑞穂の国が生まれて来たことが、想像される。お米と麦を較べてみると、お米は麦に比べて肥料というものが要らない。豊かな山があれば、山の落ち葉や枯れ草で出来た堆肥からの絞り水だけで、お米は耕作することが出来る。日本という国が豊かな沢山の人が自給的に暮らせる国に成ったのは、この里山と結びついた稲作の恩恵が全てといってもいいことだろう。山には山神様が居て、川や湧水には水神様がいる。そうした自然の中に、自分達の暮らしを織り込むことで、安定した暮らしを作り出せた国。これは世界でもまれにみる恵まれた条件の国だ。その為に、繰り返し起こる自然災害の集中する地勢にもかかわらず、日本人はこの地をふるさととして粘り強く暮らしてきた。永遠に暮らしが継続し行く、安定した稲作のできる場所。それが自然環境に恵まれた日本列島である。
2700年もの間、同じ場所で同じ稲作が続けられても、土地は疲弊することなく、人間の暮らしを支え、食料を提供してくれる稲作。その為に、稲作を続ける知恵が、日本人というものを変え、日本教の信者と言えるような共通の精神性を、作りだしてきたとも言える。縄文人も弥生人も民族としては同じであろうという研究が、最近の研究には多い。稲作を行うということで、まるで違う民族のように大きく変化をした。それほど稲作にかかわることは、人間の暮らしを変え、考え方を変え、民族の特徴まで変えて行く様だ。稲作を行うということは、集団的な暮らしを必要とする。収穫物としてのお米は富の蓄積と成る。水土を管理する技術は、国家というものを形成して行く。武力的な支配ではなく、水土と稲作という、平和的な技術を国を司る技術として、日本という国を形成して行く。だからこそ、古事記には豊葦原の瑞穂の国、日本と書かれているのだろう。それほど日本の国柄と、稲作は切り離せないものであった。
しかし、経済が大きく変化して、日本は製造業の国に成ったようだ。もの作りの国。すぐれたものを、世界中の人が喜んでくれる物を作る国。これが特に戦後の日本人の目指したものだろう。そして一定の成功を収めた。その背景には、稲作によって形成された人間の性格があったと思われる。共同する、慮る。自己犠牲。そして、類まれなる観察力。分析力。推理力。応用力。こうしたものは稲作を、地域で共同に行うことで、研ぎ澄まされた日本人的な優秀さであろう。伝統的な稲作が失われるなか、日本人の性格は大きく変わり始めている。変わらざる得ないということがある。しかし、伝統的稲作を継承する人間も必要である。そうでなければ、日本人という存在が見えなくなる。最近、とんでもない根なし草の愛国主義が横行してきた。それは、単なる国際競争的な愛国であって、日本という国柄を自覚しての物ではない。平和国家はアメリカが押しつけたものではなく、2700年もの深い歴史があるということを知らなければならない。