経営としての農業
塩山桃の里 10号 ピンボケで撮れている。その方がいい感じなのでそのままにした。
経営としての農業と言うことを考えてみる。政府の統計に経営農家4、500軒を調べたものがある。少し見た位では、実態はなかなか見えてくないのだが、繰り返し見ていると、私なりに実態が見えてくる。誤解や間違いもありそうだが。一つの農家の所得が135万円だそうだ。これで家族労働で働いているのだから、農家だけは暮らしてゆけないということははっきりしている。親が子供にはやらせられない、出来えば役場にでも勤めてもらいたいと思う訳だ。農家が減ってゆく。農外所得が155万円ほどの様だ。これがある人は農家を続けられるひと。経営農家と言っても、農業収入の方が少ない。その他年金等の収入が185万円とあって一番大きい額になっている。要するに農業者の老齢化の反映と考えてよいのだろう。この合計が、一経営農家の収入と言うことになる。年金等には、補助金なども入っているのだろうか。世帯の人数は3,6人となっている。みんなで年間2000時間働いている。一人がふる稼働で、他の人は補助的な働き方の様だ。一人で働くとしても、それほど働いている訳でもない。
これは平均値で、たぶん2000万以上の所得の農家と、所得のほぼないような農家が混ざっているので、実態は平均値からは推測できないと思える。法人経営もあれば、経営とは言えない農家も沢山あるだろう。そう考えると統計から農業を考えることはできなくなるのだが。それでも日本の農業の実態を推測する一つの材料であることは間違いがない。新規就農者には、300万円の営農計画を立てろと指導がある。今ある農家が、135万円の収入しかないのに、それは無理というものだ。無理だから適当に文章を作文するか。ゆがんだ経営農家を目指すことになる。又その一方で、135万円で暮らしてゆけるのが農家である。月に11万円の収入があれば、何とかやってゆけるのが農家の暮らしである。都会で11万円生活は厳しいが、地方ではそれくらいで何とかなる。あしがら農の会はそういう方向できた。その後半農半Xと言う言い方が出来たが、要するに何でもやって、農業を続けようと言うことだ。それには農業が好きだということが基本だろう。好きなことで生きるのが、本来の人間だ。しかし、隙が何かを見つけるのが難しいのだが。
政府の考えでは、農家も勤め人の様な企業農業に成れということなのだろう。しかし、その国際競争力の中での農業は、極めて限定的なものであり、日本の中心を占める稲作農業では、無理な話である。20ヘクタール以上の稲作農家が、政府の想定する国際競争力のある農家と言うことなのだろう。統計を見てゆくと、年所得が1、343万円である。経営者の農業所得としては500万円くらいの様だ。確かに暮らして行ける世間的にも立派な数字である。こういう農家がまだあるということが、素晴らしいことだ。しかし、こういう農家が一番打撃を受けるのが、TPPである。20ヘクタール稲作農家は日本では大型農家であるが、アメリカでは小さな農家である。つまり、こういう農家が10軒くらいは集まらなければ、TPP後は生き残れない。そういう企業的農業は是非やってもらいたいが、北海道とか、東北の一部とか、限られた地域の話になる。それ以外の農家で生き残る可能性があるのは、むしろ経営とは言えない最小の農家だろう。
自給的農家であれば、小さな循環型の暮らしが可能と言うことがある。自分の食料を作っている農家にはそういう弾力があるはずだ。出荷できない作物でも、自分が食べることはできる。農業のこうした弾力が、日本と言う国を支えてきたはずだ。これから世界は不安定化するだろう。その時にこそ、多様な小さな農家の存在が日本を支えるはずだ。だから両極に集約されてゆく流れを、農水省はしっかりと見定めて、地域の特性ごとに農地の位置づけを変えてほしい。この役割を農業委員会から放すというのも良いが、今度は市長や政治家の恣意的なものに成り、企業が賄賂を使って農地転用を行うなどと言うことは、増えるに違いない。すでにそういう利権目当てに、農業委員会や農協の廃止が画策されていることも危惧する。