斎藤史門遺作展
庭の眺め 10号
秦野を中心に、3つの会場で斎藤史門さんの遺作展が開かれていた。最終日に見に行った。斎藤さんを知っていた訳ではない。史門さんと皆さん呼ばれていたようだが、小田原市立病院の前庭で作品は知っていた。前から気になり、時々眺めていた。何が気になっていたかというと、作品になっていたからだ。野外彫刻展というものが、全国津々浦々で開かれ、その作品が各地に残されている。彫刻をやる人にしてみれば、自分の作品を発表する場として良い場所なのだろうが、果たして日本の風土にあっているのかと思う。思わぬところで、彫刻作品とは到底思えない、ゆるキャラの一種かと思うような不思議な物体が、どでっと駅前に置かれていたりする。無い方が良い作品を残してしまうと、芸術作品となっている物の撤去ということはいつかできるのだろうか。渋谷のハチ公像はまだしも、モヤイ像のまねごとの様な像は全く日本の風土になじまない。日本の伝統にはない、銅像の文化というものが、明治時代のグロテスクな遺物として、後世の批判を待っているのだろう。
立身出世主義の嫌なにおいが漂っている。あの母親を背負って階段を上る像に思わぬ場所で出会う。当人は立派な親孝行像として誇らしかったのかもしれないが、歴史の審判を経て、物としてのあの像が、まさか彫刻作品としては見られないだろう。ハチ公像のように、何度も映画に取り上げられ、模範足る犬の姿のように言われるが、私には到底良い犬とは思えない。ただハチ公が放し飼いだったことが、当時の犬の飼い方を表していて、現代の犬の飼い方が狭い飼い方だということが分る。世の移り変わりの記念像。飼い主がもう電車で戻らないことぐらい、1週間で分る様でなければ、良い犬とは言えない。あの年寄りがさらに年寄りを背負って階段を上るのは、アブなかっしくてハラハラする。2人もろ共階段を転げ落ちるのではないかと思うと迷惑なのか孝行なのか。明治の精神を伝える忠犬ハチ公像という名前だった。もう一つ言えば、薪を背負い、本を手にする金次郎像である。あれで伝えようとしている内容には、耐え難いものを感じる。困りもんの野外彫刻は数限りない。
彫刻のことである。日本の文化の中に溶け込んでいる野外彫刻はお地蔵さんである。あるいは道標の、右相模国というような物である。ただ形ある物が存在しているということで、その空間の濃密さを増しているようなものが、野外彫刻の作品だと思う。日本人の彫刻というものは、床の間に置くようなものがほとんどだ。無限の空間の中に置かれて、その位置を確認できるようなものは、めったに出会うことが無い。そのめったにない出会いが、市立病院の前の作品にはあった。それで通りがかると、誰の物かは知らなかったが、つい眺め入ってしまった。今になって、秦野駅前にも作品があるという事を知った。思い出してみると、これも前に立ったことは3回あるが、しかし興味が持てなかった。同じ人の物とはわずかも思わなかった。私に作品を見る目が無いということだろう。
斎藤義重氏の息子さんが、寄に住んでいるということは聞いていた。斎藤義重さんは学生の頃の私にはスターだった。絵画という枠を持っていないということだけでも、私には圧倒的な存在だった。その作品の良し悪しというより、自分の作品に固執しないすがすがしさの様なものを感じていた。作品の中にすら、作家の人間的なにおいは消してしまう。作家としての作品とは何かを学んだような気がする。その息子さんの史門さんということで、そういうえらい人の息子さんがいるのだということだった。その為に却ってかかわりたくないような、気がしていた。史門さんの作品を、遺作展でまとめて見せてもらうという失礼な形になった。物の形に対する微妙な感性が鋭い。わずかな傾き形のゆがみを絶妙に総合する。空間から削り取られた物体の形。3種類の傾向があったが、やはり私立病院の前にある様な傾向の物に、惹かれた。61歳で亡くなられたというが、その完成度は高く、やり残した感が全くない所が、やはりすがすがしく良かった。当人には辛かったのかもしれないが。後は作品が語り続けるのだけだ。ご冥福をお祈りする他ない。