家族の事件と監視カメラ
鳥海山の村 10号 田んぼが美しかった。田んぼの作業の人に邪魔だからどけと怒られた事を思い出す。確かに絵を描いているなどということは、邪魔なことだ。
監視カメラの設置が増えている。先日の自治会長の会議では、ごみをでたらめに出す人がいるから、監視カメラを付けてほしいという行政へのお願いの話があった。よく考えてみたら怖い話である。監視カメラについては、凶悪犯罪が増えているから、仕方がない側面があるというのが、大方の人の感想だろう。これは事実が違っている。凶悪犯罪は、減少している。そもそも犯罪の少ない国だった日本が、さらに犯罪総数は減少している。しかし、一般には凶悪犯罪が増加している印象が植え付けられている。テレビや新聞の作った虚像である。意図的に作っているというよりも、報道機関のイデオロギーが後退していることが原因と考える。つまり政治報道をきちっと出来る能力を失ってきている。その代わりに野次馬的な報道で、読者、視聴者をつないでいる。ネットの中に展開されている様々な意見の方が、新聞よりよほど興味深い見方がある。ブログではその仕事をしている人が、その仕事の問題を書いている。
本来の報道よりも、経営を考えた3面記事的な記事が増加している。昔の新聞は政治的思想を主張するために作られた側面が強かった。所がいまの報道の頭の中は、経営や経済が中心課題だ。そこで消費者の興味を引く事件報道が中心になってきた。しかも、後追い報道が大半なので、一つの殺人事件が根掘り葉掘り、ほじくり返されるものだから、事件の増加印象が生まれるのではないか。凶悪事件の減少は確かなことだ。ところがその反面、悲惨な家族の事件は増加している。親が子供を虐待する事件や家族間で起きる尊属殺人。根本には、核家族化と貧困が考えられる。核家族化して子育ての力不足が起こりやすい。もと同居人のストーカー行為からの、凶悪犯罪も熱心に報道される。類似事件としては韓国のフェリー沈没事件は盛り上がる典型パターンである。残された映像が、監視カメラのように真実が明らかになってゆく。いずれもどうでもいいとは言わないが、何の意味で、報道しているのかという報道の精神が怪しげな気がする。
何故、家族内の事件だけは増えてしまっているかを考えてみる。格差社会の貧困が主たる原因と推測される。そもそも日本的と言われてきた親子心中というものが、親による、子供に対する殺人ととらえる意識が、日本社会には希薄なのではないか。子供は殺されたのであって、自殺したのではない。日本的な家族関係がこの意識の背景に潜んでいる。子供が親とが一体化していて、一心同体という意識である。この親子関係が自分が自殺した後に、残された小さな子供がどうなるかと思うと、一緒に死んだ方がいいと考えてしまうのだろう。こうした自立できない意識が、増加している家族の事件の、背景になっているのではないか。苦しんでいる親を殺してしまう事件。ストーカー事件でも、対象への依存の背景に、自立した人間でないということがある。自立せず、どこか他者への責任転嫁、失われた自己確認のためにストーカになる以外に自分を保てなくなる。
監視カメラは場合によっては有効なものである。しかし、家族の事件には機能しない。必要な所には、付けざるえない社会状況がある。法律で設置できる場所を決めて置く必要がある。どこにでも監視カメラがあって、いつの間にか写されている社会が良くない。子供の虐待をしかねない家族には、監視カメラを義務ずける。その内、政府の文句ばかり言う、私の様なものはテロをしかねないから、監視カメラが必要だ。当然盗聴など当たり前のことになる。チップも埋め込んでおく方がいい。犯罪は減っているのだ。にもかかわらず、不安が増幅されている。これは、国境の緊張状態でもそうなのだが、誰かが意図してやっていると考えた方がいい。不安をわざわざ作りだし、監視社会を作り出そうとしている意図がないか。注意深く見ておかなければならない。強い権力を持とうとする者はいつも不安なものだ。