ヤンバルの蜂蜜

   

畑の中の鉄塔 10号 景色を壊している鉄塔と、景色を作っている鉄塔がある。


今帰仁城跡の好きな眺め

今回の沖縄行きは、古謝さんの歌を聞くこと。そしてもう一つの目的が、ヤンバルのオーシッタイ(大湿帯)という所に移住した蜂蜜やさんを訪ねることだった。やんばるの蜂蜜を食べてみたいと思って探して、ときわファームというものが、オーシッタイというやんばるの山中にある事が分った。タチアワユキセンダングサ(通称サシグサ)蜜という物を見つけた。沖縄に行くと今の時期至る所に咲いている草の花だ。この花の蜜を集めて、蜂蜜としている。きっとヤンバルの香りがすると思った訳だ。ますます、オオシッタイ(大湿帯)という所に行ってみたくなった。調べるとなかなか興味深い所のようだ。藍染をやられている上山さんという方も30年も前に、オオシッタイ移住したらしい。昭和55年に大阪から当時1人の住民(崎山朝吉さん)だけという廃村寸前状態にあったオーシッタイに入植されたとのこと。藍はヤンバルの山の中で暮らす人たちの、欠かせない作物だったらしい。ヤンバルの山中に寄留してきた人たちには土地がない。険しい山の暮らしの中で、まず始めるのは藍作り。と書かれている。

自給自足で暮らしたというヤンバルに寄留した人たちの暮らし。沖縄で使われている寄留という言葉は様々な意味があるようだ。大阪からの寄留商人。那覇からの寄留士族。中国からの寄留民。他所から来た人すべてを示すようだ。やんばるのような厳しい環境に入植する人たち。何重にも加わる、圧政から逃れる。あるいは、権力から強制的に寄留させられる。こうして、寄留という言葉がふさわしい、人の暮らしが生まれたのだろうか。大正中頃のヤンバルには200余りの開墾集落があったという。現在44集落で,残りは廃村になった。ここでいう開墾集落とは,主に明治20年代~30年代に国策的にできた集落国(沖縄県)は,明治12年(1879年)の廃藩置県により失職した琉球王府勤務の士族層(人口の2~3割)の救済のために,ヤンバルでは杣山(そまやま;公有林野)の開墾を推進した。これが寄留士族とある。下北に送られた、会津藩士族を思わせるものがある。暮らすに困難な地での開墾生活。

そして今の、20軒ぐらいありそうな移住民の集落的なオーシッタイ。1970年代のヒッピー文化的移住の香りが少しした。当時の写真から比べると、現在のオーシッタイはどことなく、老齢化とジャングル化が感じられた。ともかく緑が深い。湿度が高い。川が流れている。梅雨時にもかかわらず晴天になって暑い。沢山の梅の木が植えられていて、丁度成り頃であった。蜂蜜をやられているカフェー:シャクマールの常盤さんは20年前に、静岡から移住されたのだそうだ。どこか外国に移住したいと考えて、場所を探していたのだが、たまたま沖縄のオーシッタイを案内される運があり、一目でここに移住を決めたそうだ。静岡市内に暮らしていたそうだから、外国と言えば外国の様な所と見えたのかもしれない。岡山から移住された木工をされる方がやはり暮らしていた。その人の情報から最初この集落を知ったのだが、この方は今は岡山に戻られたそうだ。

トキワファームのミツバチの箱は、やんばるの森のあちこちに点在して置かれているそうだ。一か所にまとめて置くのではなく、広い範囲に置いて、管理に一日かけて回るそうだ。蜂蜜は7年前から始められたと言われていた。蜂蜜をやられて、やんばるの環境が変わってきていることを感じる、と言われていた。こうした所の珍しいカフェーということで、観光客が案外に来るのではないかと思う。ラオスの民芸品が所狭しと置かれていたから、外国というのはアジア方面なのかな、などと思った。家も自作ということだ。来たときはまだ若かったから何でも出来たと言われていた。それは私にもよく分る。開拓暮らしが楽しい年齢というものがある。オーシッタイをぐるぐると回ってみたのだが、上山さんの藍畑の管理が行き届いていることが印象的だった。機械を使っている印象もない。この緑濃い森の中で、畑をやる困難を思うと、上山さんの所は人手があるのだろう等と思いながら、オーシッタイを後にした。

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