水彩筆について
瀬戸大島から見た2つの島 10号
水彩筆は大きくは、日本画の筆から来たものと、ヨーロッパのコリンスキーに代表される水彩用のものがある。日本画の筆は、文字を書く用途から始まっている。文字が書きやすいというところから、文字に書き手の人格まで表現できるようにということで、微妙な筆触が反映されるように工夫された。その意味で多様性を受け入れ、個別性が強調出来るように作られている。ヨーロッパの水彩筆は、基本は刷毛から来ていて、正確に塗れるということが重視されている。幾何学的な意味での精確な太さとか、変化のない線とかが引けるということの方が重んじられている。そういう性格から、テンの毛ならテンの毛一種で作られている。日本の筆は外を取り巻く毛と中に置かれる毛が異なる。このバランスで、筆先の微妙さと、絵具の含み具合が調整されている。もちろん日本の水彩筆と呼ばれるものは、ヨーロッパの筆に学んで作られていて、単一の材料であることが一般的である。
私は日本画の筆というか、相撲字を書く様な筆を使っている。これも多様でどれがということはないのだが、隈取筆言われるものだ。清晨堂の水彩筆 というものがあるが、それではなく、清晨堂の隈取筆を使っている。一般にはないのだが、白雲というさらに太いものを作っていただいて使っている。先代の宮内さんという名人である。この方は、先々代のお父さんが名人と言われて、大観筆を作った人である。「先代の筆には及ばないと、いまでも言われているんだ。」と、最晩年言われていた。「日本画の人は嫌だ、筆を消耗品にする。その点水彩ならいい。」と言われて、私の希望した筆を作ってくれた。もう30年は隈取筆中心に書いてきた。隈取筆の別大2本と白雲2本を常に使う。加えて、豚毛のダビンチの18番の筆を使うので、基本5本で描いている。最近宮川さんの弟子だった阿倍さんという方が、水彩人という筆を出しているが、これは使ったことはないのだが、相当微妙な調子の筆のようだ。淡彩の人に向いているのかもしれない。
筆で重要なことは、手になじむことだ。大抵の場合は、使いこまなければその筆の良さは出ない。つまり水彩筆は使い育てる筆である。買ってきてそのままで調子がいいなどということはない。どうしても消耗して行くものだから、常に新しい筆を準備して、馴染ませて準備しておかなければならない。自分のくせや調子が筆に反映して行き、自分の筆触を作り出す。この筆触というものに自分の感じているその時の鼓動の様なものが、乗り移ることを願っている。油彩画の人に手の指で描くという人がいるが、手以上に自分の見ている微妙さが反映できる筆で無いとならない。先日、私の絵と交換で筆屋さんをされている、○○さんから、扱っているピカビアという筆を一式頂いた。戴いたので使ってみているのだが、やはり自分の調子とは違う。違うのだが、淡い調子を重ねてゆくには、良く出来た筆のようだ。なんやかんやと筆の数は、200本ぐらいになる。
水墨の筆が使えないかと、広島の熊野の筆屋さんを訪ねて、希望を伝えて作ってもらったことがある。今はなでしこジャパンに送られた化粧筆で有名になったが、そもそもは日本中の学校の書道筆を作っていた。その大量の安価な筆を作るので、一部の高級な材料が抜き出せたのだ。筆の原材料は玉石混合で輸入される。しかし、私には熊野筆はどうも使いずらいもので、上手くなじまなかった。水墨の筆は穂が長い。長いのだけど、腰があって自由がきく。だから、使い馴染めば良いということは分るのだが、私のように全力で擦りつけるような書き方だと上手く使えない。これは水彩紙と水墨用のドウサの無い和紙との違いだろう。筆触としては、油彩画のような筆触が欲しいのだ。