集団的自衛権の解釈改憲
北信の山の畑 10号 長野から北に行くと、それは山の奥の高い所にまで、家があり、畑がある。それは人間の暮らしの一番美しいものかもしれない。
政府はかねてよりの安倍氏の私的諮問機関である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)からの想定の答申を待って、いよいよ集団自衛権の解釈の変更を目指す。本日午後に安倍氏の会見が設定されている。内容は要望通りで決まっているからである。こんな懇談会は全く政治的手法に過ぎない。しかし、今回の解釈変更には、日本の平和主義を揺るがしかねない、根本問題が含まれている。軍事力を海外で行使できるのかどうかである。世界情勢の複雑さからして、軍事力を海外でも行使できるとなれば、どこにでも出て行って武力を振うことになる。これは結局のところ、国際紛争を平和的に解決するという、憲法の根本精神を変えることである。これは憲法改定を行わない限りできないというのが、世間的な常識であろう。自民党の憲法草案からしてもずいぶんおかしなやり方である。自民党憲法もこういう形で変えられてもいいと考えて提案しているのだろうか。
時間をかけて憲法改定をやっている余裕がないという、現実論があろう。分らないではないが、集団自衛権の解釈変更にはどう考えても行き過ぎの無理がある。論理的に矛盾がある。自衛隊自体が、憲法違反ではないかという議論がかつてはあった。そうした裁判もあったが、自衛権というものが認められているのだから、最小限の武力は、平和憲法の自衛の範囲なら可能というのは司法の判断であった。しかし、集団的自衛権については、自衛隊が海外で武力行動を行うことになる。これは憲法違反だというのが、内閣法制局の一貫した判断だった。ところが、この内閣法制局長官を慣例を破って、安倍氏は任命権限を持って、小松氏を無理にねじ込んでしまった。すでにこの時に、憲法解釈は変わってしまっている。こういう強権をもちいた、強引なやり方で憲法解釈を変える手法が、法事国家で許されるとは思えない。実はこのやり方が通用するなら、憲法解釈に置いて、その時の政府の都合であらゆる解釈が可能となる。
日本国憲法については、その改憲も簡単にできない方がいいし、解釈もなるべく一定にして変えない方がいい。つまり日本国の方針なのだから、時々の政治に左右されては困る。それでも憲法の定めに従い、憲法が変更になるのであれば仕方がない。国会も、国民もそのように考えるのであれば、その時は日本国を見限る以外にない、と私は考えている。しかし、そうした手順を踏まずに、曖昧に解釈の拡大をして、海外で武力を行使できる国に変えるのは、稚拙この上ないし、危険極まりない。解釈変更には限界が無いのだ。いくらでも拡大解釈ができる。日本は武力行使はしない国だという、国際的な信頼感が失われる。平和憲法による、国際的な抑止効果が失われる。そのようなものはないというのが、現実主義からの声だろうが、理想を掲げる効果というものも、無い訳ではない。理想をどこまで大切にして、行動にあらわすかである。
軍事力均衡は歯止めが無い。結局は原爆まで行き着く。北朝鮮が原爆を保有国になり、何をしでかすか分らない。このことは中国ですら止めることができない。中国は複雑な外交力の国だから、日本の比ではなく北朝鮮に働きかけをしているはずだ。それが核実験を今回中止した原因ではないか。北朝鮮が自暴自棄になり、行う核攻撃を完全に防御する軍事力はアメリカにも存在しない。ここまで兵器が先端化したら、武力を使えば終わりである。ますます、武力を使わない平和主義は重要になっている。しかし、日本は平和的手段の外交というものを行っているのだろうか。まず、平和的努力を限界まで行う必要がある。すべてはその上でのことだ。平和外交の努力が足りない。今の自衛隊を災害救助隊に変える位の決断が必要である。世界の災害に駆けつけて、救助作業をする。