小保方晴子氏と理化学研究所
日の出の海 6号 相模湾で描いた。海はどこも海なのだが、少し違う。海がある切り口を見せると気がある。その奥をもっと見たいと思っている。
小保方晴子氏の大発見については、感想がなかった訳ではないが、書かないでおこうと思っていた。しかし、あまりの展開に書いてみることにした。スタッフ細胞があるのかどうかなど、当然門外漢には分らないことだが、今回の騒動のレベルの低さには全くあきれ果てた。一般社会がノーベル賞レベルの研究者に、常識を求めているのだ。全く世も末だ。時代が弱まっている、劣化している姿だ。ごく普通の人間に、新しい発見など出来るわけがない。いまだかつてないものを見つけようという人間は、大抵はとんでもない人なのだ。普通の人を期待するなら、驚異的な発見など期待しなければいい。常識人ばかりでは、新しい発想は生まれない。ピカソだって、マチスだって、ゴッホだって、ゴーギャンだって常識人ではない。当たり前のことではないか。天才中の天才のモーツアルトなど、全く不思議な人だったらしい。子どもながら、大人が感銘を受けるような曲を作曲している。こんな天才が生まれる時代というものを考えてほしい。自分達の常識の枠に、天才たちをとどめようとするのは、やっかみである。
この展開は、時代がいかに衰退してきているかを表している。どの時代も、次の時代を切り開くのは常識人ではない。医学に於いて新しい発見をして、命を救ってくれている人たちほど、素晴らしい人はいないと思う。感謝してもしきれないほどのありがたさである。こういう人たちが、たまたま、写真の切り張りの仕方がおかしいとか何とか、全くどうでもいいことである。我々は在りがたく、崇拝すればいいだけのことである。天才というものは、どうせ普通人ではない。普通ではないから、次の時代に切り込めるのだ。全く研究ノートがおかしいなど、小学生ではあるまいに、天才は何をするかなど分る訳がない。もしかしたら、犯罪者の場合だってある。アンリー・ルソーは銀行強盗をしたことがあった。殺人を犯した、カラヴァッジョなど絵があまりにすごいので、許されたほどだ。天才を我々の常識で判断しようなどとんでもないことだ。確かに天才は迷惑なものだ。ゴッホがどれほど迷惑であったかしれないが、あれほどの絵を残したのだから受け入れるしかない。天才もつらいのだ。
研究者ほど尊い存在はないと思う。学問をされる方は、人間の輝きのようなものだ。我々一般人のレベルで考えてはならない。切り張りした、写真をねつ造と攻め立てたてていた人が、今度は自分も切り張りしていた。ところが、その切り張りの意味が違うと、謎の弁解をしている。実に本物の学者らしい応対で、ほほえましくもあり、学者はそんなものと考えた方がいい。調査などという実務的なことをやらせる方がおかしいのだ。要するに研究の成果を、ありがたく頂けるのは次の人類だ。そういう研究者の非常識世界を大切に育てることが出来るのかどうかが、社会の熟度だ。社会常識でその自由を奪うことは、いかに社会の損失であるか。もし社会常識を重視するなら、凡庸な世界を受け入れるしかないことになる。次の時代など来ないだろうし、ノーベル賞を取るような学者など期待しない方がいい。
最近の日本社会が活力を失い始め、揚げ足取りや、人を育てる余裕を失っている。実はこれが格差社会の実態である。格差が天才を認めない。おかしいようだが、こういう天才たちの揚げ足を取るような空気で、格差の鬱憤晴らしをしているのだ。はけ口を求める社会。はけ口がなければいたたまれない社会。カジノ解禁も同じ流れなのだろう。健全な暮らしが普通に行われていれば、差別主義や、揚げ足取りなど、不要である。近隣諸国との軋轢も同じことである。社会に余裕がなくなっている。小保方氏が我々凡人とレベルの違う研究者であることだけは確かであろう。もっと、気ままに研究を出来る環境がなければならない。真理の前には、結果を急がない、特許がとか、発見がどうとかいう低レベルのことはどうでもいいだろう。