ベビーシッター殺人?事件
海に続く道 10号 小田原にはこういう景色が沢山ある。放棄された山の畑から、海が見える景色だ。晴々としてなんとも言えなくいいものがある。
ベビーシッターに預けた子供が、どうも殺されたらしい。子供はもちろん、お母さんもさぞや辛いことだろう。どこか社会に出来ている狭間に起きた、悲劇のように見える。ベビーシッターに子供を預けるしか道のない親の状況がある。ベビーシッターがまさかという痛ましい事件である。残念なことに待機児童0を誇った、横浜市で起きた事件である。おかあさんの辛い気持ちを思うと、申し訳ないようなつらい思いである。それにしても、子供をめぐる殺人事件が頻繁に報道される。しかも、親が子供をいじめ殺してしまうというような、さらに地獄のような事件すらある。社会が病気にかかっている現象だろう。この幼児に対する病的な事件の頻発は、近年間違いなく目立っている。過去になかったとは言えないだろうが、未熟な大人が、弱い子供をいじめているのではないかという事件は、近年目立つ事は間違いない。何故、未熟な人間がベビーシッターに成ろうとしたのだろう。弱者が社会からいじめにあっているようなストレスの中に暮らしている。弱者がさらなる弱者をいじめてしまう姿。
ベビーシッター事件の真実は分らないが、ベビーシッターというものがウェブを通して、これほど広がっているとは知らなかった。考えてみれば、そういう社会背景が想像されるのだから、気がつかなかったことがうかつだった。子供を一時預け的にどこかに頼みたいという人が沢山いるはずである。待機児童0の横浜ですらそうなのだから、他の地域ではなおさら深刻なことだろう。私の家では子供ではないが、動物が沢山いる。動物と子供を比較するのは、不謹慎かもしれないが。動物たちを誰かに頼むことが出来ない為に、どこにも出かけることが出来ない。アニマルシッターがいるなら、きっと頼むだろう。無理に頼むのが、岩手の兄である。自分に小さな子供がいるとなれば、働きに出るにも、深刻なはずだ。どうもネットのこうしたベビーシッター組織ではトラブルが良くあるようだが、ネット情報の不確実性への対応は、普通の暮らしでは、他の道も思いつかない。ベビーシッターは資格も要らないし、許可制度もない。どこの誰とも分らないような場合も多々ある訳だ。ネット検索で出てくる業者は、結構安心して預けられそうなイメージを作り出している。
そういう業者に頼まざる得ない社会の現実がある。孤立した家族の置かれた状況を考えれば、悲しい社会。「無縁社会」「ワーキングプア」「格差社会」これらの問題を深刻化している原因は、経済構造にある。グローバル化した経済では、企業が利益を追求する合理性の前には、個人の生活や、社会の仕組みなど、無視してもかまわない。そうでなければ国際競争に負けるという資本の論理が貫かれる。負ければ、日本が貧しくなるのだから、格差どころではないだろうということが、盛んに言われる。どうも社会の行く先を間違えているようだ。国際競争に勝つということが、今よりましな社会に行けるのだろうかという疑問。政府に関して言えば、少子化担当大臣の発言や厚労大臣の発言が、事件が起きてから問題に気付いたというような、私と変わらない状況判断。横浜市には緊急の24時間子供の預り所がある。よこはまハピネスネットというものがあり、ここに頼むということは出来たのだろうか。
公的な、託児所の枠組みに入れない、沢山の子供たちがいる。そして、補助がないためにベビーシッターが高額になり、より安価な個人シッターに流れる現状は、お母さんが犠牲者に成っている。このお母さんもどれほど苦しかっただろうか。孤立して、不安を抱え、どうしたらいいのか判断もできなかったのではなかろうか。何か不安を感じながらも、ネットのベビーシッターを頼む以外思いつかない現状は広がっている。地域社会が失われている。それは都会だけではない。小田原の周辺部に当たる、舟原でも、子育てをご近所で手助けできるような状況ではない。それぞれ孤立していると言っても良いのだろう。一つの壁は個人情報である。来年度は自治会長をやる訳だが、全体の情報は全く知らない。先日そのことを相談に小田原市に行ってみたが、個人情報が盾に成り、相談しても無駄な感じだった。