「明日、ママがいない」のこと

   

村の様子 10号 山形の長井市に行った時に通りかかった集落。突然描きたくなったことを覚えている。途中まで描いてそのままになっていた。1月になって、急に描けそうな感じになり、描いてみた。おもに手前の木のあたりに手を入れた。

日本テレビの「明日、ママがいない」というドラマのスポンサーが全部下りた。ということである。前代未聞の事態である。さらにびっくりしたのは、日本テレビの社長が全部のスポンサーが降りても、放映は継続すると発言したことだ。ぜひともそうすべきと言いたいし、制作するという以上そこまで考えて作っているはずだ。しかし、スポンサーあっての民放テレビである。CMなしのNHKのような感じになるのだろうか。何だ、ACジャパンのコマーシャルを入れるらしい。一度見てみたいものとは思うが、もう寝ている時間だ。起きてわざわざみたいとまでは思わない。赤ちゃんポストをドラマ化したものである。この赤ちゃんポストは設置された時点でも賛否両論があり、センセイショナルな報道が繰り返された。こういうことは静かに処理することが一番大事である。子供の人権にかかわることだから、慎重の上にも慎重に扱わなければならないのは、誰しも共通認識であろう。せっかく静かになったのに、いまさら話題化すること自体が、そう褒められたことではない。

1回目のドラマ放映の後、騒ぎがすぐ起きた。なるほど一回目の掴みで少々やり過ぎをして、話題化して視聴率を取ろうという作戦かと思った。しかし、やりすぎらしいでは済まないレベルらしかった。問題にされた病院からすぐに抗議がなされた。少なくとも、病院との間で事前の調整ぐらいはしていると思ったのだが、どうだったのだろう。2回目以降だんだんと人道的なドラマになるらしいということで、終わりまで見ていただければ、このドラマの意義は理解していただけると言う見解が、制作者から出された。なかなか上手な発言だが、最後まで見てもらえば意図が分るということだが、最後まで見てひどかった場合の悪影響はどうなるのだろう。この時点で判断しないと取り返しがつかない。この問題はそう生易しいことではない。問題は、後のことがどうこうではなく、一回目の放映内容が人権侵害に当たるということらしい。私の所にも、一緒に署名活動をしてもらいたいというメールが来たくらいだ。

私は水彩画の制作者として、創作物は一切の制限は加えるべきではないと考えている。今回のドラマの問題は、テレビで放映することがいいかの判断である。現代社会の世論を形成するという意味で、テレビは影響が強すぎる。影響があるからこそ、破格金額のスポンサーが付く訳だ。そういう資本主義社会を反映した独特のテレビ文化が作り上げられている。テレビによる一億総白痴化と大宅壮一という人が、予言した。人間の劣化という意味では、テレビが第一波で、第2波がパソコンであろう。当然のことだが、白痴化と情報化が同時に起きているのが現状だろう。つまり社会が変わったのである。身体を動かして学ぶ、行動する人間から、頭で受動的に処理して行く人間になったということだろう。それが一口で言えば、情報化社会である。この状況下で起こる、情報の出し方の間違いは、創作物の自由どころでないリスクがある。これがドラマだから、まだ許容範囲の問題として議論がされている。もし原発報道が、正確に検証されたら、調査報道という精神からいえば、テレビ各社失格であった。

マルハニチロ問題でも、少しでも調査していれば、会社の発表を鵜呑みにはしないはずだ。こういう犯罪は、おおよそ単独犯である。複数で合議することが難しい。それを単独行動は工場内では出来ない監視体制だと、マルハニチロは説明をした。みんながそれに騙された。調べればその程度の調査放送はできたはずだ。だらしないテレビ報道である。こういうところに、情報化社会の人間劣化が現われてくる。JR北海道の情報改ざんなども、情報と現実の問題との境目が分らなくなっている。そうドラマのことだった。テレビドラマには表現の限界があるということだ。自由に自分の表現をしたいならば、ニコニコ動画で放映すればいい。テレビという枠でだけやりたい気持ちが、すでに表現者として不純。テレビで評価されたいという気持ち、視聴率を取りたい思いが、センセイショナルな内容や極端なせりふが許されるなら、すぐ裸になる芸のない芸人と同じである。テレビを育てるのも制作者であるし、壊してしまうのも制作者だ。委縮することなく、どこまでも自由に表現可能な場が、現状では用意されている。表現の完全自由をテレビに持ち込んで主張する必要はない。

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