縄文人の遺骨91体発掘
残雪のアルプス 10号 松本の浅間温泉から、東に一気に上ったところから、アルプスが良く見える場所がある。特に夕方日が沈む時間は圧巻である。今年も又描きに行くつもりだ。
富山市の呉羽山にある小竹貝塚の縄文遺跡の発掘で、縄文人が91体も見つかった。全国で発掘された約2000体の縄文人骨のうち、前期のものはわずか120体ほど。それが今回、約70体ものまとまった人骨が見つかったのだ。平均身長が159センチで、60歳を超える骨も見つかった。柴犬ぐらいの大きさの犬の骨21体の発見というのがすごい。この遺伝子を調べて行けば日本犬のルーツが分るかもしれない。石器の先端が刺さったイルカのあばら骨もでたという。イルカ漁を確かに日本人は何千年としていたのだ。鶏もいたはずだが、骨は出ないのか。
中には石を抱いて葬られた骨もあり、頭上に直径約五センチの小さな土器を載せた状態で埋葬された人骨や土器の中に収められた子供の骨も見つかり、国立科学博物館人類研究部(茨城県つくば市)の坂上和弘研究主幹は「縄文前期の死生観を考える上で大変貴重な資料となる」と話す。
細胞中のミトコンドリアのDNAを解析すると、ロシアのバイカル湖周辺や北海道で発掘された北方系の人の骨と、東南アジアから中国南部に多くみられる南方系の人の骨から見つかるDNA型と同じものが、それぞれ確認された。
弥生時代は稲作を始めたということで位置づけられる。そのために、どんどん時代が遡って長くなっている。かつてなら年代的に縄文晩期であるのに、今では稲作の存在から弥生時代ということになる。縄文土器からコメ粒が出たということで、その炭化米は栽培されたものではなく、運ばれてきたのだろうという説もあった。何時代と呼ぼうがそういうことはどちらでもいいのだが、縄文人と弥生人をくっきりと分けると話が矛盾してくる。骨格の違いについては、DNA分析で今までとは違う整理がされ始めている。時代区分として、使用していた土器の性格で分けられてきた。縄文人という名称は、縄文土器を使う人たちということである。確かに、弥生式土器とは文化的な断絶があることは確かだ。その意味をむしろ考えた方がいい。それ以前の日本列島に住んでいた石器時代人が、縄文人とつながりがあるのかは、さらに分っていない。石器自体はたくさん発掘されるのだが、人骨についてはほとんど出ていない。沖縄ではある程度発掘され、その推定から、縄文人と関係があるということが言われていたが、今ではそれも疑問とされているようだ。
日本人というものは、だんだんに日本列島にやって来た人々。そして混じり合いながら日本人という塊りになったようだ。こう考えた方が自然である。それは、縄文時代も、弥生時代も、その後のいつの時代もそうで、平安時代でもたくさんの朝鮮人が、文化人として、技術者として迎えられ存在した。同時に、アイヌの人たちや、沖縄の人たちは、辺境に追いやられながら、むしろ同質の縄文人的資質を残した。日本人は外から来るものを拒絶的でなく受け入れて、より日本人らしくなった。このことは民族的資質として、誇れることではないだろうか。普通に考えれば、言葉の壁がある。どうやって乗り越えたのだろう。江戸時代、鹿児島と幕府の折衝では通訳が存在した。琉球王朝とも通訳が必要だった。しかし、どちらも言語としては日本語である。子供のころ弘前に行って、何を話しているのか、何日たっても全く分らなかった。そもそも言葉は他の集団とは、今のようには通じないもので、普通だったのだろう。
今回の遺骨の埋葬方法から、縄文人の死生観が窺えるという点は極めて重要な発見である。とても大切に埋葬されている。以前から言われてきたことではあるが、子供の骨が壺の中から出ている。子供をいとおしむ心。祖先を大切に思う心。縄文人の心は、排除ではなく受け入れる心の人たちのような気がする。そうした、人たちが、徐々にやってくる新しい文化を持った人たちと、対立せず、融合しながら、徐々に日本列島に広がってゆく。新しく来た人々は、生産性も高く、感性も洗練されている。洗練はされているが、縄文人の強さはない。こうした美的というか、呪術的感性の違いだけは、受け入れがたいものとして、分離されていったのではないか。しかし生活が最終的なものから、農耕的なものに映ることで、その感性も変化をきたしたのではないか。長い年月の間に、農耕文化という蓄積可能な暮らしが、広がってゆく。縄文的に暮らす人たちは、狩猟をする山の人として、漁をする島の人として住み分けが行われる。