強い日本論

   

桃の里 塩山 毎年描きに行く。今年もまた行ってみたいと思っている。甲府盆地には塩山以外にも桃を描きたくなる場所が沢山ある。起伏と、桃畑の関係に惹かれるのだと思う。

強い日本とはどういう国のことだろう。安倍氏はどんな国を思い描いて、日本の方角を口にしているのだろう。もし、明治時代の富国強兵であれば、日本が崩壊する道であったことが明らかである。さすがに、そこまでは愚かな人だとは思わないが、何故こういう言葉が出てしまうのだろうか。同時に美しい日本ということも発言している。さらに瑞穂の国日本ということも書いている。どうも、この人は自分の頭で考えていないような気がする。誰かに操られているのではないだろうか。もちろん今の政治が一人で出来るとは思わない。又一人でやるのは良くない。しかし、瑞穂の国と、強い日本がどうしても繋がらないのだ。本来であれば、この人のことを分析する必要もないのだが、なにしろ日本の総理大臣になってしまい、今や日本をどんどん変えてゆこうとしている。その本当の所の動機が知りたいと思う。

経済に邁進していることは確かである。来年度の予算はまるで、公共事業重視、大企業の後押しのために出来上がっている。その理由は景気を良くしなければ、日本が負けるという発想である。そして多くの国民が仕方がない。自分の暮らしに恩恵が来るまで時間がかかるらしいから、我慢しておこうという感じなのではないか。実はそういうことはあり得ない。景気が万が一良くなったとしても、ますます、貧しいものは貧しくなる構造に、進んでいる。世界の経済競争に勝つということを、重視すればするほど、格差社会にならざる得ない。それは韓国が進んでいる道である。際だって優秀な人が一人いるということが重視される。キムヨナ選手一人が強いのが、韓国のフィギアースケートである。本来国民スポーツという観点であれば、スポーツを楽しむ人たちがどれほど国民全体に広がっているのかが、重要なことで、頂点一人の問題ではない。所が金メダルだけが、オリンピックでは重要になる。東京オリンピックを目指し、選手強化だけが行われるのだろう。経済も同様で、ずば抜けた製品であれば、一社が世界を独占して行く。

一番でなければならない社会。同じものを作れば、とにかく一番のものが売れるのが商品。つまり、先鋭化した能力社会を日本も目指そうとしているのだろう。特別な資源を産出する国土ではない日本は、人間の際だった発想力や、発明力を育てる他、競争に勝つ道はないと、思い詰めているのではないだろうか。しかし、この発想には落とし穴がある。ずば抜けた日本企業が生まれたとしても、その企業は日本の企業ではなくなるのである。競争に勝ち抜けば勝ち抜くほど、世界の中で有利な位置に立とうとする。楽天という企業が英語を社内語にするというのも、楽天のようにインターネット通販をしていれば、国内も、世界も違いは少ない。同じ商売の仕方で、世界に広がる可能性は紙一重である。日本という国にこだわることは、世界企業として競争に勝ち抜くためにはマイナス要因になる。強い日本という一国主義がすでに経済では、壊されている。競争に勝ち抜き、優秀すぎる企業が生まれれば、生まれるほど、日本に暮らす人間は豊かさとは離れてゆく。

この関係は、強い日本論の中ではどうなるのだろう。本当の意味で強い日本の国というものがあるのなら、自立している国家であるはずだ。そして世界の為になる国であるはずだ。アメリカは強い国であるのが、不安に満ちた銃社会だ。農業に於いて、勝ち抜く企業が登場したとすれば、その企業は日本を越えてゆくだろう。ベトナムや中国で生産して、世界に輸出して行く農業企業にならざる得ない。そうしなければ世界での米生産の競争に勝てない。日本で生まれた優秀な稲作技術や品種が、世界中で生されている。しかし、これからは農業技術や品種も、競争に勝つために独占しようとすることになる。そういうことは貧しいことではないか。日本の豊かさとは、どういうところにあったのかを、見つめなおさなければ、本当の意味での強い国にはなれない。恩納村の仲西さんが言われた、戦わない文化の見直し。沖縄は、敗れても弾圧されても、今の沖縄の魅力ある文化を失わなかった。江戸時代の強い百姓文化はそこにある。

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