ニライカナイと伝統農法
根府川の海 遠くに見えているのが真鶴半島。とても良いところで良く絵を描きに行く。しかし、この絵は出来が良い訳ではない。6号正方形。なぜ良くない絵と、良い絵があるのかも本当のところは分らない。描いていると、何かの拍子に生き生きしてくることがある。そのやり口がだんだん増える。その積み重ねなのだが、果たしてそういうことが自分の絵に、近づいていることになるのか。このことはもう少しまとめて、今度書いてみたい。
伝統農法という言葉を、恩納村の百姓の仲西さんは言われていた。有機農業でも、自然農法でもなく、自分がやっていたのは伝統農法である、と言わた。百姓と自分を規定する位だから、伝統農法という言葉も意味が深い。「東アジア4000年の永続農業」という本が農文協から出ている。とても大切な本だ。日本も沖縄も、たった100年さかのぼれば、日本中どこでも伝統農法が存在した。この伝統的農業のなかでも、特に東アジアに存在するものは永続性があり、残して行く価値がある。仲西さんの言葉のニュアンスには伝統農法の先にあるものが、ニライカナイということではないかと推測した。私の考えすぎかもしれない。有機農業という言葉はJAS基準の言葉であって、やってはいけないことだけが明らからな農法である。昔に作られた言葉であるようだが。学問的な意味合いや行政言葉の意味が強く、少なくとも百姓の言葉ではない。日々農業をやるものには、禁止事項より、奨励される農法の姿が見えなければ意味がない。
言葉というものは、心の声であり、命名は大切にしなければならない。有機農業という言葉がいかにも座りが悪く、安定しない。この妙な言葉を活動に付けたりしたら、到底上手く行かない。日本有機農業研究会というものがある。以前は入っていたことはある。大切な組織なのだと思うが、消費者と学者と、運動家はいるかもしれないが、暮らしている百姓がいるとも思えない名前である。有機農業映画祭で、対談をされていた恩納村の仲西さんが、この映画祭の名前は良くない。私がやってきたのは伝統農業だと、言われた訳だ。私は、自然養鶏をやっている。伝統養鶏とは言えない。伝統的な鶏の飼い方は分らない。江戸時代には世界最高水準の鶏の飼育技術が存在したはずである。それが特別天然記念物の鶏まで生みだした。しかし、その飼育技術は消えてしまった。江戸時代の飼育法を念頭に置きながら、笹村農鶏園の発酵利用の自然養鶏を組み立ててきた。しかし、伝統養鶏と名乗る自信はない。たぶん伝統的養鶏法ぐらいになるのだろう。
行政言葉の一つに環境保全型農業ということがある。型という一言を入れることで本質が問われないようにしている。伝統「的」と入れたとたん、偽物だということが分かる。笹村農鶏園の自然養鶏は、自然を観察し、その摂理を見極め、そして自然を生かし、従い鶏を飼う養鶏というものである。自然の持つ循環の摂理を出来る限り損なうことなく、養鶏を織り込んでゆく。自然に織り込まれた養鶏でありたい。人間の暮らしも含めてそうありたいという願う養鶏である。有機農業という言葉が、百姓の言葉でないことにいつまでも気付かないようではだめだ。誰もが、人の作った言葉でなく、自分を説明する言葉を探さなければならない。自給農法という言葉を考えたことはあった。自給的に農業をやるものには、独自の農法が存在する。それは伝統農法に近しいものである。
沖縄には沖縄言葉がある。「ニライカナイ」というなかなか不思議な言葉がある。どうも黄泉の国のことであり、彼岸のことのようだ。説明では「海の彼方にあるといわれる理想郷のことで、そこには、五穀豊穣や人々に幸せをもたらす 神様が住んでいる。」古事記における黄泉の国は、理想郷や天国ではない。何故、黄泉の国が理想の国になるのか、沖縄に暮らす人は、理想郷を求めて、渡ってきた人たちなのか。タカラ貝を求めて移り住んだと柳田國男氏は「海上の道」の中で書いていた。その宝貝を求めて琉球諸島に漂着した者たちが稲を携えていた。その稲を島伝いに伝承し定着させていったのではないかということである。柳田氏は若い時代に沖縄に渡り、沖縄学の父ともいうべき伊波普猷氏(いなみふゆう)と出会い、「おもろそうし」に出会う。その体験が「海南小記」になる。私自身が読んだのは後のことで、ほとんどは父の話で聞いたことだった。沖縄言葉でなければ語れない沖縄のこと。すべてはそういうことなのだ。