縄文人と弥生人

   

縄文人と弥生人はどういう関係なのだろうか。同じであるというのが、ひと連なりであるというのが私の空想である。中国人は北京原人から連なっているという空想は、間違えが証明された。縄文人は狩猟採取の民族であり、弥生人が農耕の民族であるとされる。しかし、こういう画一的な歴史教科書の記載のようなものではないことだけは確かだ。そういえば、西洋人は狩猟民族で、東洋人は農耕民族である。これも中学校で教わった記憶がある。大雑把過ぎる。それを根拠に、日本人の、農耕民族的性格まで語っていた。縄文人は少なくとも1万年日本列島に暮らしていた。その間も、多様な民族の流入はあったのだろう。日本の様々な辺境に、流れ着き暮らし始める。何故、人間が故郷を捨て、流浪するかには、災害や食糧不足など、様々な原因があるのだろうが、いずれ、南から、北から、西から、様々な日本列島にたどり着く集団がいたはずである。日本列島全体と言ってもせいぜい、10万人から、20万人で暮らしていたのだ。ほとんど人に出会うこともないくらいの密度である。

流れ着いてみれば、暮らしてゆける土地である。そしてわずかづつ先住民と交流が始まる。こうして混血を繰り返しながら、日本列島に暮らす縄文人が変化を重ねながら、形成されてゆく。時間の経過とともに、新しい技術や、能力の異なる人たちもたどり着いただろう。技術や文化が、徐々に波及し、独特の縄文文化として高度な集団が形成される。北海道の中空土偶など、飛躍した技術で宇宙人が作ったという人がいるほどだ。長い時間をかけ日本独特のものとして、育ってゆく。農業技術と言えるかどうかはともかく、栗やドングリ、くるみ等の木の実を集落周辺に残し、栽培もおこなうようになる。採取文化と農耕は切れ目なく繋がっていたと考えた方が当たり前の考えだ。山芋等をとり尽くすのでなく、次に採りやすく残すことから、集落近くに再生してくるように植えるということも生まれてきただろう。そうして縄文晩期になれば、農耕的要素が広く芽生えていた、受け入れる下地が醸成されていた。と考えることが自然である。

縄文晩期になると、中国では、長江中流域にはすでに稲作農耕技術に格段の高い技術が生まれている。(紀元前5000年~4500年と推定される河姆渡文化の遺跡から大量の炭化米が発見されている。) 稲作が始まり、人口の急増も可能になる。その稲作技術は、朝鮮半島に広がり、様々な機会に日本列島にたどり着くことになる。その先進技術とともに、日本に来た人々もいただろう。しかし、農業技術を持った人々は、それまでの縄文人とは、違う場所を適地として新しい暮らしを始めたと考えられる。その農業技術は革新的なもので、縄文人もその技術を受け入れ、取り入れ変化を始めたと考える。縄文人は新しい人々を受け入れながら、変化を受け入れ、融合する。民族的には渡って来た人々の数は少数で、縄文人に吸収されるぐらいの数ではなかったのではないだろうか。しかし、技術的には圧倒的なもので、狩猟、採取中心のから農耕に文化そのものが大きく変化して行く。農耕ということから蓄積ということが始まる。この変化が、弥生文化の形成になる。

アイヌの人たちと、沖縄の人たちが、近しい血液的分析とある。たぶん辺境に古い日本人的な血が残っているのだろう。それはロシアに残るアイヌの人たちの血液とはどう違うのだろうか。朝鮮の人たちとは、どう違うのだろうか。将来血液の厳密な調査が進めば、日本人の成立過程も具体的に見えてくるはずだ。興味深いことは、縄文文化にある、たくましいものが、弥生文化の繊細なものに変わってゆく過程である。この落差が大きいために、違う民族であるかのようなイメージが作られたのだろう。暮らしの基盤が変わると、人間自体が変化して行く。何を美しいとするか、何を大切だと考えるか。どう生きるのか。稲作を捨ててゆけば、日本人ではなくなる。私がそう不安に感ずるのはこの点であるが。縄文人が捨てた、狩猟採取の暮らしは、どのように弥生に引きつが得たのだろう。それは国際人になるということでもあるのだが、失われゆく縄文人の悲しみのようなものだろうか。

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