寓話としての動物農場
「動物農場」ジョージ・オーウェルは、独裁に関する寓話である。この寓話はイギリスで1954年にアニメ化もされ、日本ではスタジオジブリによって公開されている。その予告編はUチューブで見ることが出来る。私がこの本から受けた衝撃とはまるで違う印象である。【動物農莊】という名前では中国語字幕入り版があり、これではすべてみることが出来るようだ。動物倉庫は寓話としても良く出来た本だとは思わない。読み始めると結論がすぐ分かってしまう。しかし、養鶏業をしているものとしては、ちょっと重い内容である。支配というものの性格が、動物に置き換えて書かれている。革命によって、支配を払いのけたものが、新たな支配者になる構図。すべての独裁国家というものの姿である。そして支配される一般の国民というものは、変わらず家畜として生き続ける。悲しい姿である。家畜であるから、革命の理念を理解することすらできない。
独裁国家を笑っているというより、能力差別の問題の方が大きい。日本という国にある、経済支配というものをつい連想する。権力というより金力によって、人間が支配されている。支配というものは、オーウェルが書くように、支配されている人は気付かないものである。誰しも、お金に縛られているなど思わないのだが、実はお金が全ての価値観の根底をなす。そのお金の力で人間という存在全体が支配される。給与をくれるので、存在の誇りを捨てて土下座もする。絵描きであれば、売れるということに支配される。これが商業主義絵画時代の実態である。どのようにしてそこから脱するかと言えば、すべてを趣味にするということだ。実益のない趣味にすることだ。アマチアリズムこそ、金権支配からの離脱。私絵画の主張。自給農業の主張。これは学生時代の美術部の先輩の般若さんから学んだものである。オリンピックでもプロ参加が認められ、金権支配が進行した。
日本では、お金にならない分野では、評価もされなければ仕事もない。博士の資格のある人の就職先が極めて少なく、18万人も職に付けないとNHKで報道していた。この傾向は、さらに進むに違いない。韓国では大学卒業者の4人に1人が、サムスンの就職試験を受けるそうだ。これなど、動物農場を髣髴する事象ではないだろうか。一人ひとりの人間の存在をくっきり尊重するというのが、民主主義である。民主主義は効率も悪いし、お金にならない。一人ひとりが自分の正しさをバラバラに主張し、まとまらないまま、少々不満のある結論で進めなければならない。勢いはつかないし、経済競争に民主主義は適合しない。能力差別を行う方が、経済競争には向いている。理想を述べていても、現実の競争に負けるのでは、話にならないというのが、世界市場の競争ということになる。動物農場でも、生産効率を上げるための独裁ということが進む。この話は寓話というより、まるでドキュメントの様である。
この点が、寓話としては物足りない所だ。支配者の豚を独裁者の名前に置き換えるだけで、現実化してしまう。このアニメが中国向けに動物農荘となる所以がそこにある。しかし、アニメというものの限界を感じる。寓話として見た場合、生々し過ぎてどうかと思うものを、デズニーアニメのような動物たちが演ずるとなると、もうこれは寓話とは完全に言えなくなる。猫がネズミを追い回す、デズニ―アニメでは、正義も愛情もほどほどにしか感じられない。やはり、書かれている小説というものの面白さを思う。最近宮沢賢治を読み返している。この人の小説は世界に通用するのではないかと思う。古さというものが全くない。動物農場とは逆で、まるでお話の様に書いているが、寓話なのだと思う。寓話にはとても興味ある。