魚の目について
魚住昭という人が編集責任者になっている、「魚の目」というウエッブマガジンがある。以前は様々な異質な人々が記事を書いていた。自分達で報道を行わなければならないという思いが根底にあるのだと思っていた。3,11以降この意図はほぼ終わりになった。しかし、魚住氏だけは、週刊現代連載「わき道をゆく」に書いた記事を転載している。だから細々と続いているという感じである。こういうウエッブマガジンというものは、成功しないという結果とも思える。たぶんある角度からの編集がされるということが、読む者にはダメなのだと思う。大手新聞社などは、報道の中立性とか、社会の公器とかいうものの枠にあるということになっている。自分の主張を極端にはしない。産経新聞が一番偏った全国紙だと思うが、それでも赤旗のような明確な主張はない。一定の中立報道の位置を確保していて、そこにあるものは公式見解のようなものに過ぎないとう、暗黙の了解を持っている。
あるメガネで見た報道。それを3,11で誰しも痛感した訳だ。そのメガネは国民のための配慮というメガネである。海外の報道のようなものを全国紙がそのまま行った場合、パニックになったかどうかである。パニックになったはずだ。それをしなかったことを評価すると主張したのが、魚住氏であった。それから魚住氏の書いたものに目を止めるようになった。この人は、共同通信社の記者をしていたが、自分の考えのままに記事が書けないということで、新聞社を止め、フリーのライターになり自由に書きたいことを書いている。そういう人がパニックになることに配慮して、事実を知った上で事実を報道しない、という選択を一定評価していることに驚いた。同時に、本当のことをかけない大手の報道というものは一体何かという疑問も書いている。出来る限りの真実を、洗いざらい出すのが報道の命だと思っている。だらしない報道機関の編集姿勢の為にそれが出来ていないのだと考えていた。
最近開くウエブ記事では、ブログスというものがある。このことは改めて考えたいと思うが、様々なブログを寄せ集めたもののようだ。どうやって寄せ集めたかは分からないが、腹が立つようなすごい数の記事と、なるほどそういう考えもあるかという参考になる記事がいくらかある。正しい情報というものは、多様になるはずである。大抵のことの真実は一つではないのだ。鶏の品種の東天紅はこんな性質の鶏だ。という記事であれば、てんでんばらばらであるはずだ。Aさんの考える東天紅は人に攻撃的に向かってくる鶏。Bさんの考える東天紅は人懐っこく付いてくる鶏。飼う人によって同じ系統の鶏でも変わってくる。つまり近視眼的な経験報告であれば、様々な偏向がある。しかしこの変更を承知で、Aさんの、餌の考え方。卵のふ化の仕方。等々辿ることでわかることがある。そして、やっと、東天紅の性格を書いた、Aさんの見方が分かってくる。人の意見というものは、そういう面倒くさいものではないだろうか。だから大手の報道が魅力がない。
魚の目のことであった。魚住氏の文章がどんどんすごくなっていると思う。以前の記事とは真実への切り込みが違ってきている。文章が私に居直って面白くなった。小説の方が、報道より面白い。命がかかった様の文体になっている。文章の力がすごい。今でもはたして、真実を報道できなかった、日本の大報道機関の姿勢を少しでも評価できるだろうか。この人が本当のことを書くようになって、その周辺の人たちの姿がなくなった気がする。周囲が居なくなって本当のことを書くようになったのか。何故一人になったのかはもちろん何も分からないが、一人になろうが、1万人になろうが、全くそんなことには関係がないのが、ブログではないだろうか。文章と読む私とは、一対1である。最近は料金を取るウエッブマガジンもある。こうしたものは基本的に読みたくない。本はやたら買うのにおかしいのだが、ウエッブの世界が、いつまでも無料の世界であるべきだと考えているからだ。