シートン自叙伝
イノシシが今年も出没している。秋になって田んぼはとても心配だ。以前も一度書いたが、猪が捕まらないのは、子供のころシートン動物記を読まなかったからだと、自然農法の石綿さんに言われた。たぶん、シートンについては、相当に読んでいるはずである。シートンはそもそも若いころ絵描きで身を立てようと考えたようだ。子供のころから絵を描くのは上手だった。子供のころから動物も好きだったらしいが、絵描きなら食べられると考え、動物学大学には進学せず美術学校で学ぶ。確かカナダのトロントである。卒業後、イギリスのロイヤルアカデミィーに入学している。ところがアカデミーはすぐ辞めて、帰国する。そして、兄について入植者になる。そこで直接自然を見ることを通して動物学を始める。つまり、大学で書物を読んで学ぶというようなやり方ではなく、自然を自分の目で見ることからシートンの動物学ははじまる。
シートンがそれまでの動物学者を凌駕して行く事が出来たのは、書物を捨てたところにある。学問をするというと、過去の書物から学ぶということに、依存しがちである。シートンは動物学者になりたいと考えて、大学のような学問の世界に入らず、自然の中に暮らすことを選択する。自分の目を信じて自然に起きていることを直接見ようとした。この自分の目で「見る」ということの意味を大切にしたところが、それまでの動物学を一変させることになる。ノーベル賞動物学者のローレンツもシートンを高く評価している。動物学を一歩前進することが出来たのは、出来上がった書物的動物学に入らなかったところが重要である。自分の目というものを育てるには、自分が自然の中で暮らす以外にない。書物をいくら読んでも、自然というものの本当の姿を知ることはできない。このように考えたわけだ。私が山の中で暮らすことで、自分の絵を建て直そうと考えたことも、同じように学んだことだ。絵をかくということが自分の内なる真実を出し尽すこととするなら、自分を暮らしの中から育てる以外にないと考えた。私は自分の食べるものを自分の手で作ってみようと考えた。
発酵利用の養鶏も、全く私の体験を書いたものだ。養鶏学を学んだことはない。大学で畜産を学んだ訳でもない。鶏とともに暮らし、自分の目を育て、鶏の見方を少しづつ知った結果である。誰かに教わるということは性に合わない。その意味で、稲作、小麦、大豆、野菜、すべてやってみて、その結果を見ながら知った方法である。もちろん、大豆栽培なら、土中緑化法は稲葉さんの発想したものである。そこはなるほどと学んだが、後は、自分で繰り返し栽培しながら、進めていることだ。あくまで自分の目というものがなければ、本で学んだところで、作物の栽培など出来るものではない。相手が、自然というものであれば、千変万化である。自分なりの見方を育てない限り、どうにもならない。
昨日は昔の絵を大量に捨てた、ケイトラ山積みで3台である。恐ろしいことであった。この後自分が絵を描くためのことである。過去の自分から抜け出て、いまだかつてない自分になって絵を描きたい。シートン自伝を読んだ感想でもある。内なる自分に従うという意味は、深い行動的観察に基づく。ただ座して動物を見ていた訳ではない。動物に出会えないとしても、足跡には出合える。足跡を何日も追い続けながら、動物と対話する。昨日何を食べて、どこで寝たのか。さっそく今年出てきたイノシシの荒らした後をよく観察した。すると川から、どうも2か所上がってきている場所があるようだ。コンクリートの河岸なのだが、川に降りるためか、わざわざ、高くしてあるところがある。ここを上がれないようにすることが、対策の第一だろう。大きな石なのだが、これを崩して低くすることを先ずしてみよう。これがシートン自叙伝を読んだ結果である。