製造業の危機

   

小学校の同級生と卒業以来初めて同じ部屋で泊まり話す機会があった。彼がカバン屋の家で生まれ、今カバン屋さんをやっていることは知っていた。前から彼は営業を担当していると聞いていたのだが、どんな仕事なのかは全く知らなかった。今度ある地方都市にカバンの工場を作るというのだ。廃業まで考えたたのだが、ギリギリのところで工場を作る方を選択したというのだ。60過ぎてこんなことをするには相当悩んだという。彼のお父さんは映画になるようなすごい人生を歩んだ人だ。むしろ同級生よりも、お父さんの方と接する機会がが多かった。91歳で亡くなられたが亡くなる前にもう一度話を聞きに行きたいと思いながら、それもかなわなかったのだが、その方が始めたカバン屋さんである。一見街のカバン屋さんに見えるのだが、広く営業をしているということは聞いていた。そういえば最近町のカバン屋さんというのは見かけなくなった。

同級生のT君はカバン屋さんの長男として生まれ。カバン屋さんを引き継ぐために、それは厳しく育てられ、引き継いで経営していた。そうして63歳までやって来たのだから、それなりの道のりであったはずである。しかし、何故遠い中国地方の町に工場を作ることになったかである。T君の営業していたカバンを作ってくれる工場がなくなったのだ。ここからの彼の話はとても興味深かった。T君が営業するカバンは彼自身がデザインしたものなのだそうだ。とても工夫したもので、工場のラインからすると、一度はずしてハサミを入れて、再度ラインに入れる工程が必要なのだそうだ。この一工程があるために、大きな工場ではやってくれなくなったというのだ。そもそも大きな工場というものが、日本にはなくなってきた。中国、ベトナム、と工場が移転して、国内には国産にこだわるわずかな工場が残っているに過ぎない業界だそうだ。残ったいくつかの工場にT君のカバンをやってくれるところがついになくなった。

カバンの布の生産自体が、今や東レ1社だそうだ。中国製はレベルがかなり低くて使えない。韓国製もあるが、今一つなのだそうだ。留め金でいえば、今や在庫がある限りで、これが終わればもうおしまいという状況だそうだ。留め金は日本の工場で金型を作り万単位で、生産していたものだ。ところが、いまさら万単位で作っても、売れるめどが無い。彼の所で使う単位は、50個とか、100個とかの範囲だ。特注は無理だ。それは縫うカバン糸までそうらしい。彼はある特殊な糸を使うことで、納得のゆくカバンを作ることが出来たらしい。その糸は他より数倍するが、カバン一つにしてみれば知れた価格。そういうところをケチらないでいいものを作ることが大切なのだと言っていた。すべての素材が消えてゆく、そんな状態だ。製造にこだわるようになったかは、彼は若いころ、カバンの製造から販売までをヨーロッパで勉強したらしい。しかし、家業の営業をしてゆくのに、製作の実際には入れず、カバンをデザイン企画することを選んだらしい。

そうした経験から、自分の納得のゆくカバンを作ることが、彼自身の満足になったという。そのために素材を吟味し、腕のある職人の居る工場を探し、ともに開発研究し作り上げるという道を選んだ。ところが、工場自体が海外移転する位だから、職人も育たない。もう納得ゆくカバンは作れないのか、悩みに悩むなかで、74歳の腕の良いカバン職人に出会った。その職人が一緒にやろうと言ってくれたので、遠く関西の向こうに工場を作る決断をした。大きくはない工場らしいが、若い人も入れて、職人を育てることもせざる得ない。すごい決断をしたものだ。T君の挑戦が成功してほしい。しかし、T君が自分の挑戦に悩んだのは、生業としては成り立たない可能性が高いということを感じているようなのだ。それなのにやりぬく覚悟をしたらしい。すごいことだ。たぶんこうしたことが日本のあらゆる製造業、職人の世界に起きているきがする。

昨日の自給作業:おく手タマネギの収穫1時間 累計時間:9時間

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