下田の絵
「春の海」着いて最初に描いた絵 中版全紙 ファブリアーノクラシコ 絵具はニュートン
とても風の強い日だったので、白波が立っている。沖合の方まで、白波の白い点が連なっていて、しだいに小さくなっている。不思議なことなのだが、沖合の海の色は、濃紺という時もあれば、ほぼ白という時もある。水平線は明瞭に出てくることもあれば、全く見えない時もある。何故なのか分からないから気になる。そもそも海の何を感じて、何を描きたいということなのだろうかといえば、あくまで海は器であって、自分の心の中を描いている。見ているという自分と向き合う意味で、画面がある。
「春の海」2 次に描いた絵 中版全紙 ファブリアーノクラシコ
ほぼ同じ場所をたて構図にした。その方がこの厳しい感じにふさわしいような気がしてきたのだ。2日目に描き進めて、どんどん水の持つ感じに近づいて行った。描写しているわけではないのだが、目の前に海があるというのは、かなり参考になる。大きな下から上への抜けてゆく力のようなものを探していた。家に帰ってからさらに描き続けてみたいと思っている。海を怖いと思っていたが、向き合えば、受け入れられるものがある。諦めるというか、こういうことなのかと明らめることがある。どうしても津波のことが浮かんでくる。日本という国は、こうしていつも再出発しろという国になっている。
「風の海」その次の日に描いた絵 中版全紙 ファブリアーノクラシコ
まだまだこれからの絵であるが、一番気持ちは出てきた絵だ。この先どういう絵になるのか。描くとすると、もう一度行くしかないのか。きっかけは描いてみたが、水彩というのは、ここでもいいと言えばいえるし、この先が大切なことだともいえる。大体の場合、描けば描くほど、自分の見たものから遠ざかってゆく。しかし、遠ざかりながら、もう一度立ち返ることもある。
「岬の家」 途中 P10号位
海の方ではなく、岬越しに見た風景である。不思議な家が山の中にあり、どこから登るのかすらわからない。どんな人が住んでいるのかなど思いながら描いた。とても気軽に描いたので、何か面白いところもある。家に戻ってさっそくこの先を描いた。すでにだいぶ変わっている。
「夜の海の風」 かなり途中 P10号位
波の強い日の夜、見えない海を描いている。見えないのだが、吹き抜ける風の音と波の寄せる音が聞こえる。聞こえていないのかもしれないが、見得ていないのかもしれないのだが、絵としては頭の中にある絵。頭の中にあるイメージを描くのが水彩画ではないかと話したら、いや、頭の中には説明的なイメージしかない場合もあるということだった。たぶんそういう人には、そもそも絵を描くくことは無理だろう。絵は誰にでも描けるものではない。まず、素晴らしい景色に何かを感じない人には無理だ。そしてその景色を見て、頭の中に描く画像がイメージできないようでは絵を描くことはできない。そんなことはない、絵の描き方にもいろいろあると、いう反論が聞こえるが、そういう人と話しても私の絵にとっては仕方がないことだ。
「海の庭」全くの描き始め P10号位
絵にもなっていないが、描き始めのメモのようなもの、あえて写真を撮ってみた。水面を見ていて見えてきた庭である。たぶんこの先描けないだろう。