人生の楽園

   

時々『人生の楽園』というテレビ番組を見ることがある。先日お借りした、DVDを見ようとして2ヶ月も見ることが出来ないでいる暮らしなので、この番組も年に1,2回偶然見ると言うに過ぎないが。案内人というか、ナレーターが以前は、西田敏行さんとランチャンで、今は菊地桃子さんである。つまり、今はテレビではあまり見かけない二人のアイドル時代を覚えている年代がターゲットなのだと思う。定年退職世代、団塊の世代の人生の楽園のイメージがいろいろに出て来る。田舎暮らしを楽園と呼ぶのは、普通のことだが実際はどうなだろう。女性好みに成りがちな所を、上手く中高年男性を番組に取り込んでいる。それは生計を立てる楽園という視点を忘れないという事らしい。新しく田舎に入り、小商いをしている人が多い。農家になった人でも専業農家というより、工夫をして直売方式をしている人。いずれにしても、田舎で周囲の方々と良い交流をして、のんびり楽しく生計を立てながら、第2の人生をやっている姿が取り上げられる。

人間には青い鳥、移住願望がたぶんある。私には常にある。何しろ13年山北に続けて暮らしたことが、一番長い定住な位である。どこかに行けば解決するということは、何一つないのだが。それでも場所を変えることが出来ればと言う思いが湧いて来るのは不思議だ。随分場所を変えて見たが、結局問題が変わるだけである。幸せが今の場所にある事に気づくと言うより、不幸はどこに行っても付いて来ると言う方が、近い気がする。逃げる生き方を止めろという意味では、幸せの在り処より、不幸の普遍性に気づく方が早い。完全な不幸も、完全な幸福も無い。楽園というのは、不幸も含めて生きることを深く味わえる場所という事に成る。万物が成長するのを眺めて暮らせる場所が、私の楽園である。種を蒔き、成長するのを見る。病気になったり、枯れてしまうものもある。様々な予測をしながら、その結果の違いを推測しながら、観察する。

結果には必ず原因がある。それがものが生まれて、成長する姿である。そんなことは、まるで当たり前のことだし、何万年も繰り返されてきたことにすぎないのだが。私という生命も生まれて、成長し、死ぬ。これはまた唯一のものである。せめて、自然の在り方に沿う生き方をしていたい。結局そう言うことである。人間も生まれ、そして成長し、老人と成り死ぬ。そのことを十二分に見て、生きて、死にたい。そう言う事が出来る場所が、人生の楽園という場所なのではないか。生まれると言う事が不幸でないように、死ぬと言う事も不幸という訳ではない。生きると言う事をじかに、深く味あう事の出来る場所というものがある。それは人により異なるのだろうが、多くの人にとって、自然というものとともにあると言う事が大切なのではないか。自己確認できる場所で暮らせるという事が、幸せなのではないだろうか。

その点農業というものほど、人間らしい命を育む暮らしは無いだろうと思う。日本人としては田んぼの日々は暮らしの基本である。田んぼをやるということは、楽園を耕すという事に成る。地場・旬・自給に生きると言う事が、楽園に生きると言う事と言っても良い。それは花が咲き乱れるような、明るいばかりの楽園ではないが、辛いことや、がっかりすることも含めて楽園である。今日一日を充実させるものがあると言う事の有難さは尽きない。しかし、のんびりとはかけ離れている。やるべきことを残しながらの毎日である。今日は何をやるかなという感じはない。スケジュールでまだ残っていることをどうこなすかに成っている。つい忙しいと思ってしまうが、好きなことだけやっているし、すべてが今止めても良いことなのだから、忙しいという訳ではない。随分大変な楽園である。

 - 自給