うなぎの贅沢
うなぎを今年はたっぷり頂いた。じゃがいもが豊作でおばさんに送った。そのお返しに何と、うなぎをたっぷりと送ってくれた。うなぎを贅沢に食べた。生涯に一度あればいいことだと思った。その昔、兄が前沢牛のいいものをたっぷりとくれた。これも父や母と一緒に有難く山ほど食べた。すでに贅沢は一生涯分させてもらったので、もうこれで食べ収めで構わないと思っている。そもそもうなぎや牛肉など、死ぬまで一度食べればいい位のものだ。それが、牛丼チェーン店では普通の昼食として売られるのだから、驚くべきことだ。こんなことはあってはならないことではなかろうか。エレベーター会社の作業員だった頃、良く吉野家で食べた。大盛りでも足りないくらいで、2杯ペロッと食べた。あんなにお腹が空いたことはあの時期以外にない。実においしかった。60過ぎてから全く小食である。夕食は食べないことが半分位である。
贅沢と言うとすぐ食べ物が思いつくのはどうしてだろう。他の贅沢というものが良く分からない。豪華客船で世界一周するのは、多分贅沢なことなのだろうが、行きたいと思わない。地中海の豪華ホテルでのんびりするなどと言うのも、お断りしたい。舟原に居て田んぼを見ている方がよほどいい。贅沢を思いつこうとしても、思いつくものが無い。マチスの絵を手元に置きたい。と言っても、わたしの絵が山ほどあるし、マチスもあればと言う程度であるが、良い勉強にはなるだろう。好きな絵の実物で見てみようと考えて、何度もヨーロッパの美術館巡りをした。今さら見るというのも腰が重い。写真で見るくらいでも充分な気がしてくる。確かに海外旅行はぜいたくなことなのだ。ニューヨークに買い集めた、良い絵がたくさんあるようなので出掛けてみたい気はしている。アメリカ人がいたるところにいると思うと、わざわざ行く気にもなれない。アメリカ人の絵で見てみたいものはロスコーぐらいだが、これは日本人好みなのか日本に時々展覧会がある。
贅沢の話だった。うなぎの稚魚が居なくなったと言って騒いでいるが、取り過ぎである。他の原因を環境変化だとかあげる向きもあるが、取り過ぎで間違いが無い。それはウナギだけではない。マグロであろうが、クジラであろうが、日本人の過剰な消費が減少の主たる原因である。マグロも年に一度食べれれば、十分である。それくらいの方がおいしい。山梨の山村では、冷蔵庫のない時代。魚は干物、棒ダラ、身欠きにしん、ぐらいだった。それも北海道のお弟子さんという人から送られてきたものだ。後は大ご馳走で鯉のあらいに鯉こく。そんなことはよほどのお客さんが見えた時の大ごちそうだ。どれほど有難いものでも、毎日食べればいいという事ではないだろう。むしろ毎日食べることで、有難味が薄れるばかりである。美味しいものを食べるとすると、自分で作った卵かけごはんと言う事になる。玄米卵で舟原のお米で、そして自家製の醤油。こんな贅沢な食べ物は他にないだろう。
こんな暮らしをさせてもらっていることが、何より有難いことだ。自分で育てたものを自分で食べることが出来る。これにまさる喜びはない。もう一つあえていれば、自分の作った家に暮らすことである。今考えているのは家と言うより、沖縄のグスクの城壁の中に、穴を掘って竪穴住居のように暮らす。穴を掘り土壁でこさえたドームのような家で暮らしてみたい。贅沢を考えてみたものの、良く分からないようだ。毎日を自分の思うように過ごしているという事になりそうだ。厭なことは一切やらないですむという贅沢。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。と言うらしいからもう一息である。生きる時間ほど貴重なものはない。この一時一時を十二分に生き切ると言う事が出来、そのことを味わう事が出来る人間に成れれば、目標とする贅沢と言う事になるのだろう。