ボランティアの位置づけ
行政から盛んにボランティアの呼びかけがある。それは行政がやりたい、やるべきだ。こう考えるが、それを実行するには市民の協力が不可欠だからだろう。特に環境関連の企画では、大半がボランティアの募集が行われる。このボランティアの位置づけが、気になって仕方がない。例えば、久野の里地里山協議会では、明星ヶ岳の登山道を作り、その管理を行っている。作りたい、作るべきだと考えた人が発案し、協議会で作ることが決まった。そして、実際に作る人が募集され、地域の山仕事の方の協力を頂きながら、登山道は完成された。その後の管理も続けられている。一方、南足柄の明星岳登山道は、地域の自治会が管理を任されている。地域の自治会で年に1回出るらしい。出ると労賃が出る。
里地里山協議会で登山道の再建の話が出た時、反対をした。それは、その後の管理が難しいと考えていたからだ。山仕事が行われなくなり、登山道はいつの間にか消えた。それを復活すれば、誰かが管理を続けなければならない。その管理は困難だと考えた。そこで、山につつじを戻す活動を提案した。ツツジを山に戻しツツジの登山道にする。そこまで特徴のある、登山道になれば、人が通り、自然に道が確保される。ツツジを植える人を有償で募集する。植える人からは500円をツツジの苗木代としていただく。その費用が登山道の管理費用にもなる。苗木は小田原植木さんが山に元気回復事業で整備した圃場で、育ててくれている。この圃場の管理も、会員に協力が呼びかけられる。こうして、経済と繋がる形で登山道の管理体制を作ろうとした。ただ、ボランティアに労働提供を期待するというのでは、継続性が無い。
里地里山の環境が健全に維持されるためには、地域の農業や林業が産業として成立していることである。里山の棚田が、維持されるためには、そのお米が販売できることである。平地の大規模で機械化され、政府の補助金が入った田んぼの、結果的に安いお米にたいして、販売で負けないことである。今の政府の農業政策では、ますます価格差が開くだろう。山間地農業にもいくらか補助金はあるらしいが、小田原ではない。こういう所の農業を、あるいは林業を経営としての維持の方法を知恵を絞ることが、小田原の環境を守るために必要なことだ。産業として成立しないのだから、ボランティアで補おうという発想は、知恵が足りないのではないか。市民協働の社会が、実はボランティア維持社会ではおかしい。市民がになうべき仕事は確かに多い。これを善意のボランティアに期待するという事でなく、やりたい人が率先してやれる体制を、どうして作り出すかの枠組みを、思想、哲学、として模索すべきだ。
地域の自治会も新しい活動を受け入れる余地は少ない。自治会の活動に負担感が強い。それが参加率の減少になっている。役員の動員が増えている。家では健康普及員というのをやっているが、それは出動が多い。なにしろ地域のそば作りまで、健康普及員の参加が呼びかけられる。それぞれの活動は、大切な仕事なのだとは思うが、忙しい暮らしをしている者には、到底役員を引き受けられる状況ではない。押し付けの伴う仕事になり、義務的なボランティアになるのでは、どこかで破たんする。やりたいものがやる。やりたくないものはやらないで何の問題も無い。これが地域で必要な仕事であるというのでは、何かがおかしい。企画から運営まで、すべてが民主的に、自主的に構想するので無ければならない。農の会もそう言うものを目指して来たし、今やっている生ごみクラブもそう言う組織を目指している。やりたいものがやりたいことを発案して行う。この精神が失われると、ボランティアというより、勤労奉仕と言ったことになる。