表現の自由

   

表現というものは、あらゆるものから自由であるべきだ。しかし、自由というのは難しい。自分というものから自由であることが何よりも難しい。自己規制というか、自己防御というか、こういう事が湧いてくる。だから、自分の名前を出さないでの意見は、まるで自由であるかのように表現することが出来る。しかし、それは嘘の自由である。自由というものは、自己責任というものと連動していて初めて、初めて出て来る概念である。このブログでは確かに、私の一方的な意見が書かれている。批判されるものにしてみれば、誹謗ビラと言えるだろう。今回の4か所の久野川の崩壊と、その準備とその後の行政の対応について、私の一方的な意見が書かれている。行政は何も言わないが、色々言いたいことはあるだろう。私の知らない事情というものがあることは分かっている。それでも、私が知っていることで、書いておいた方がいいと考えることは、遠慮くなく書いている。特に公については市民として、むしろそうしなければならないと考えている。

私は絵を描いている。絵も表現の一つである。絵では自己表現というものがいかに難しいかが分かる。自分が伝えたいと思う事が描けることはめったにない。しかし絵を描くということは、一人で出来る。お金もかからない。それこそ自由に描く。それなのに自由に描けるということはめったにない。見えているものを見えているように描きたい。そんな単純なことがなかなか出来ないものだ。自分の見ているものと、自分というものは違うものなのか、自分が見ていると思っているものは、妄想のような幻覚のようなものなのかと思う事がある。景色を見て驚くことがある。何故こんな風なのか。昨日までこうは見えていなかった。昨日までの自分の目と、今の自分の目が何故異なるのか。明日の景色はまた違うのか。自分から自由になり、見えているものを描くこと。

絵は一見罪がないからいいのだが、このブログでは頭に湧いてきたことはすべて出していると、角が経つ。しかし、湧いてきたものをそのまま出してみることの方を、大切に考えている。普通の人間が日日どんな事を考えているのかを記録しているようなものだ。それが民主主義の始まりだとおもっている。ブログという形式はその点いい。読んでいる人も分からないし、誰でも読むことは可能だ。一度、大人の了解のようなものを認めて、自己制御してしまうと、原子力村が成立する。この構図が日本社会の一番悪い所だ。こういう形で、見えない抑制を自分自身が加えている。こうした、処世術のような大人の態度を、今は若い人の方が取る。それは、優しいからという事もあるが、イジメの社会の中で成長したせいだという気がする。目立ちたがり屋であるのに、特出することをとても嫌う。自分の意見を述べる時も、冗談なのか本気なのかを見せない。飛躍して暴発する。傷付くのを怖がっている内に、限界まで来て唐突に爆発する。

出来る限り恐れず発言する。これは絵を描くことや、田んぼをやることと何も変わらない。地場・旬・自給の世界をどこまで探求できるのか、やれる限りやってみる。これは大前提である。何時かこれを読んだ人が参考にして、自給生活の参考に出来るようなものにしたい。それなら技術書だろうと思うかもしれないが、本当に暮らしに役立つ、必要なことはその背景に根差す考え方であり、結果としての技術ではない。発言には責任を持つ。どんな発言であれ、発言する姿勢に対し尊重する。黙っていては何も前進できない。大事なのは発言をすれば、必ず行動が問われる。発言だけ立派という訳にはいかない。まあそう言う人が多いいのであるが。もちろん私自身私の言葉の責任に縛られている。だからこそ発言するということもある。言ってることとやってることが違うのでは、まずい。

 - 水彩画