大飯原発再稼働

   

野田総理が大飯原発の再稼働を決定した。その記者会見を聞いていると、相変わらずの原発神話に戻っている。まず、今度こそ安全である。事故は起こらない。何に基づくかは語らず、安全になったという御神託である。もう一つは、原発は安い発電方法であるという、間違いである。この二つは、原発事故以来、根本的に問い直され、間違いであったことは確認されたことである。絶対の安全などないということ。しかも、まだ福島の事故調査すら終わっていない。原因が分からない内に、何故二度と事故を起こさない安全対策が出来たなど、断言できるのだろうか。原発が安定した安価な発電方法とまで断言した。これは、どう考えても間違いである。核廃棄物を原子炉の上に、ただ置いておくというような、最悪の状態を続けていれば、安価なのだ。つまり安全対策をないがしろにすれば、安い発電方法というだけだ。少なくとも地震国日本においては、原発は高価な発電である。

原発再開の判断は、一つの政治判断である。野田総理によると、「原発が無ければ日本の社会は立ち行かない。」と決めつけた。少なくとも、この夏の15%の電力不足を回避するためだけであれば、一つの選択の範囲だと思う。しかし、原発事故が起きて、1年半が経つこの夏の電力不足に対して、やれることをやったのであろうか。政府の電力不足対策はただ呆然と事態の推移を見ていただけだろう。そして、計画停電をやるか、原発再開をやるか。選択しろという言い草である。それは政府が無能であるから、その2択しかなくなったというに過ぎない。まともな政権であれば、この事態を想定し、代替発電を準備したはずだ。今持ってその努力をしていない。それもそのはずで、民主党政権は、ずるずると原発の再開をすればいいと考えている。その為には、電力不足というのも筋書きの一つである。電気が足りてしまえば、もう原発の再開は無くなる。原発を再開した方がいいと考えている人が居るという事だ。

直接的には、原発利権に結びつく勢力であろう。しかし、そうした分かりやすい動きよりも、まずは事故などそう簡単には起きないよ。という、根拠のない神話依存症である。日本人が活力を失い、新しいものに移行する、人間力を生み出せなくなっていることでもある。過去のものにしがみついている、これが最近の日本人の姿である。そう簡単に大地震は来ない。心が弱まっているから、そちらについ意識が傾斜する。野田総理の中にあるものは、空白ではないかと想像される。思考停止状態。政治が今行うべきことは、日本のエネルギー政策の立案である。それに基づき、この夏の原発再開という事なら、ない訳ではない。しかし、全く将来のエネルギー計画など、手つかずである。野田総理の記者会見の中では、一言も触れられてもいない。あるのは、原発安全神話を唱える哀れな姿だけである。

東電の将来像も定かではない。福島原発事故の原因究明も出来ない。原発事故の収束方法すらまだ見えない。福島原発周辺の帰還は遠のくばかりである。これほどのことが起きているのに、何故、次の対策が取れないのだろう。世論が原発再開反対にあることは、野田総理自身の推測している。にもかかわらず、原発の再開だけしか考えられないとするなら、それは思考停止である。この間様々な代替エネルギー案が出た。確かに1発解決はない。当面だけで言えば、原発再開が安上がりなことは分かる。背に腹は代えられないというだけでは、政治の役割を果たしているとは言えない。政治は日本の将来を見据えて、長期的な展望を持たなければだめだ。エネルギー利用を多様に組み合わせることで、それが日本の強みになるようなエネルギー展望がある。そしてその中には、新しい日本の産業になる可能性がある。今の苦しさが、将来の日本の力になるはずだ。

昨日の自給作業:田んぼの均し作業2時間 累計時間:27時間

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