「地場」について

   

「地場」は社会の在り方の基本的な構成を意味する。社会の基盤が地域であり、地域がそれぞれに成立していて、その集まりで国が出来ている。地域と言うものがきちっと成立していなければ、国にはならないということである。地方分権と言われるがその背景となる、地域の暮らしの成立。その意味で、地場は国家以上のものである。土地にへばりついて生きると言うこと。土に成って生きると言うこと。その土地と共に生きるという意味。その土地の都合に合わせて自分が生かしてもらうこと。土地には魂があり、力がある。その力を頂いて生かされる。自分が生きている土地を認識すること。充分に見て、知ること。そこにすべてがあるということ。それぞれの命は、その土地に生きると言う確認。その地域の土に育てられたものを食べる。人間が土から出来ているということ。人間の命と、土の命は切り離すことは出来ない。命は命によってのみ生かされる。

命が土から生まれるのだから、土の組成と言うか、土の状態はとても大きな要素になる。人はその土地の土に従って育つて行く。相応しい土を選ぶ方がいい。人間が生きると言うことによって、風土は出来上がる。生き物全体から水土は出来上がる。この水土を見極めることが、自分に相応しい土地と言うことになる。今思えば、私は随分とあちこちに暮らしながら、結局舟原に来た。舟原に来た時にここで死ぬのだなと言う思いに至った。自分と言う命がこの場所の水土に当てはまることを感じた。ここに生きる風土つまり、気風のようなものを含めて、ここに満ちている命の世界が自分の身体に適合する事を感じた。それは、自分が生まれた、藤岱と言う土地と似ていたということだろう。山北もここだと思って暮らし始めていたが、もう一つ違うということがあったのだろう。結局、舟原に落ち着いた、

経済の仕組みは、人間の生きる範囲と言う本来の地場と言うものを崩壊させた。それを否定することはいかにも現実離れするのだが。身土不二という言葉がある。仏教の言葉である。因果応報のようなもので、この世界で、自らに起きる結果ともいえる現実(身)は、原因となる環境的要因(土)と切り離せないというような意味と考えている。これが食養生とか、地産地消とか、狭い範囲で使われることになった。その為少し捉え方が狭くなっている。地場と言うのは、ここでいう身と土の意味と考えたい。一里四方のものを食べる、という限定的な意味で考えるものではない。人間が生きると言うことは結果であり、いつもその原因を見ている必要がある。食べ物で言えば、その育つ姿の中にすべてがある。食べると言うことで起こるすべてはその原因たる食べ物に由来する。だから、その育つ姿をよく知らねばならない。その意味で現代社会が持つ、実態を見えなくする疎外を問題にしていると言える。

より大きな枠に統合すると言うのは支配者の思想である。個々人に立ち返るためには、一鉢に種をまき作物を育てて見る。その仕組みが分かるということが地場の発見に成る。生き物が育ち、その命を頂くこと。その原点の確認をしながら生きる広がりをみたときに、一つに地場と言う単位が現れる。この地場と言う単位を暮らしの原点として大切にする。それが暮らしを取り戻すための、視点である。暮らしの範囲が見える。国よりも地域が大切だということになる。作物を育てていると地域の水土と、自分の命とのかかわりということが見えてくる。この確認が出来ると言うことが、安心ができるということである。現代社会が地場と言う単位を失ったのは、競争の原理である。この再生の為には、たまたまそばに住んでいると言うだけの、地域社会を越えて、新たな思想的なテーマコミュニティーを作りです以外にない。

おとといの自給作業:大豆の選別2時間 累計時間:2時間

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