湧水がある幸せと安心
畑に湧水がある。湧水と言っても少し頼りない湧水だが、一年中出ている。幸せの湧水である。昔の地主さんの話では、枯れてしまったと言われていた。その後私が直して使えるようにした。日照りが続くと細くなってくるが、何とか通年出ている。久野に縄文人の遺跡があるのは、このような水があったからだと言われている。正確なことは分からないらしいが、水の出る高さに住居が、上へ下へ移動してきたらしい。時代によって水が高い場所でも出ていると、集落が少しでも高い所に移動したらしい。高い方が他の面ではいいと考えていたようだ。人の暮らしには水は他の要素より決定的な意味を持っている。特に、水田が始まれば水を管理する能力が、その集落の命運を担っていた。水の為に地域と言うものが形成されてきたと言える。水田を行うということは、土木工事が行われる。大工事が出来る技術と集団の大きさ。その力量が西の方からだんだんに東に浸透して、小田原に到達する。小田原を起点として、関東から北へと広がって行く。水土の維持能力が地域力である。
舟原では、久野川の左岸に当たる南側の斜面に湧水が点在していた。今でもいくつかの湧水が残っている。正確に言えば湧水ではないのだが、江戸時代に掘られたという、横井戸ある。人が潜れるくらいの穴を300メートルくらいは掘ってゆくらしい。危ない感じがするが、こういう手掘りのトンネルが、あちこちにあるから、このあたりはトンネルを掘る土木工事の技術が確立していたのだろう。石を掘り出した跡地がいくつかある。笹村農鶏園の養鶏場の場所も、石置き場であったらしい。石に関する伝承もある。機械のない時代に大きな土木工事を行う先端技術こそ、稲作文化の大きな要素であろう。大きな石を動かす。石積みをする。水路を張り巡らし、均等に水が流れるようにする。田んぼを水平に作り、水漏れがない畔を作る。農業をやるということは、こうしたすべての技術を身につけると言うことであった。
横井戸のトンネル掘りは、江戸時代初期今舟原で暮らす人たちの、ご先祖がはっきりとこの地に暮らし始めた時期のものと思われる。だから、300から400年も維持され、ここ50年は修繕もせず流れ続けている。大切にしなければならない。私が10年前この場所に越して来た時は、すでに、この穴は崩れてなかった。しかし、塩ビ管を10年ほど前に奥の方まで入れ込んだらしい。それが出なくなったので、農地を購入するときに前地主が埋めてしまった。購入してからそのうちに直そうと思っていたが、偶然のことで治った。芋の穴を斜面に掘る時にどういう訳か少し出るようになった。それでも止まったり出たりであった。それがあの地震以来ではないかと思うのだが、少しづつ出が良くなり、今では結構出続けている。水道が変わったというか、どこかで出無くなってこっちに来たのか、良くは分からない。この水で畑に蓮池を作ろうか、もう少し様子を見ようか。
この水が飲めるのかどうか、そこは微妙である。上の畑の下あたりが水源だと思う。農薬や化学肥料が浸透している気がして、飲んだことはない。一年中水温は15,5から16度である。一度水質検査をしてもらいたいと思っている。ここに稲の種籾を入れると、発芽してしまうくらいの水温である。冬になるとむしろ暖かい感じになり、湯気が出て来る。水やりやら、農器具の洗いものには重宝しているが、まだそれ以上有効には使っていない。それでも、電気が止まり、水道が止まる事態になれば、有難い緊急用の水になる。堆肥の中に風呂桶を作り、この水を入れて堆肥温泉と言うのはどうだろうか。