農の会の分配法
農の会には、田んぼの会、お茶の会、今度出来た小麦の会、そして大豆の会がある。すべてが自給のための畑や田んぼの活動。こうした活動のほかに、生産者の宅配の活動があるが、これは少し考えが異なる。どの活動も、会の考え方を尊重している訳でもなく、それぞれに考え方があり、自由に運営されればいいと言うことになっている。それでも、農の会の出発以来の考え方として、社会の経済システムと違う考え方がある。社会通念に引っ張られて、労働と対価と言う常識的な考え方との間に、常々行き違いが生じてきた。農の会は自由な人の集まりであり、上から考え方を押し付けるようなものではない。あくまで自由裁量の中で、良ければこういう考えがありますよ、と言う範囲の農の会の考え方である。分かるようでわかりにくい仕組みである。分かりにくいのでなく、誰にもわからないことで、方角だけがおぼろげに示されている感じだろう。
農の会の活動ぐらい、経済から離れたものにしたいと言う事がある。「やれるものがやり、必要なものが食べる。」こういう理想がある。そうもいかない現実もあるが、出来る限りそれに近付けたいと言う、理念と言うか、方角と言う方が近い。農の会設立の思いと言うようなものかもしれない。これを押し付けるのでなく、自由な選択の中で配慮できれる人がいれば良いという位のこと。今回大豆の会が再出発と言うことに成るので、大豆の会でも参加の枠組みを考えなおしてみようと言うことになっている。とても分かりにくいことだが、極論を言えば大豆を作ることは、作れるものが作ればいい。大豆が出来たなら、それを必要とするもので分ければいい。作るということと食べると言う事を、対価で計算しない。これをうまく実現できないかという、大それた思い。
具体的には、お茶の会仕組みは参考に成る。お茶摘みに参加する人には、「1回の作業に参加して下さい。」と言う条件がある。全部で6回ぐらいの作業がある。全部出る人もいるし。一回も出ない人もいる。と言ってそれであいまいに了解されている状態。田んぼの会でも、舟原田んぼはこうしたやり方で、15年気持ち良くやって来た。欠ノ上田んぼも似た考え方で運営されている。舟原田んぼでは一度も出ない人でも、分配は同じにしたこともある。全部出て半分しかもらわなかった人もいる。大豆の会でも、作業は作業で完結して、それ自体を楽しむと言う事が原則に出来ないだろうか。それが収穫を問わずという本当の意味ではないか。大豆の分配は分配で、差をつけない。損だと言う人もいる。不公平だと言う人もきっといる。世間の経済の仕組みを考えれば当然そういうことになる。ところが、田んぼでもお茶でも、それでも成り立つ。状況を理解できる人は、積極的に補ってくれることになる。
そして段々に良い人間関係が産まれてくる。支えようと考える人がいる。対価で計算するとそうした人が出てこない。農の会の農作業くらい、気持ち良くやろうと言う事になる。成るかどうかは別にして、そう有りたいという願い。平等とか、公平を持ち込むと、どこまで行っても不満が存在する。役割分担通りやったのだからと、働きを出し惜しみする。自分の畑なら、誰に言われなくとも、自ら気おつけることに成る。みんなの畑でありながら、意識は自分の畑でありたい。舟原田んぼでは、それが出来るようになった。来た子供たちが遊んでいることも、その役割があるように、それぞれに無駄なことなどない。と言うような希望である。希望であるから、全く押し付けるものではない。違っても全く構わない。そのことも農の会らしい自由の中にある。宗教的でなく、全員が対等で、こんなことが出来ないかと言うのが、農の会である。