家庭電力の推移

   

 一般家庭電力の使用量は一年間4,200kw、一ヶ月300kwが平均だそうだ。2000年ごろがピークで、30年で三倍に成っている。不景気のおかげか、省エネ家電のおかげか、その後は300kwよりわずかに下がってきている。この毎日10キロワットの暮らしというのは、インド人の暮らしから見ると、20倍の電力使用だそうだ。そして、自動販売機一台とこれは同じだそうだ。60年当時から見ると、5倍の電力を使う暮らしになっている。まるで電力依存の暮らしになってしまった。消費社会に誘導された、擬似的快適生活。寒くいこと、暑いことは厭なことではあるが、暮しを深めて行くためには、ただ避けていればいいということでもない。自然から離れ過ぎてしまっ電化生活。

 東京など普通に暮らそうとしても、エアコンが無ければお年寄りや身体の弱い人には、無理な地域に成ってしまった。私がやせ我慢でエアコンなしの暮らしをできるのは、ここ舟原が里山の里地であるからだ。暑いも寒いも良いなどと言える。人間の欲望はなかなか厄介なものである。楽をしたいのは当たり前のことで、その為にみんな頑張って、ここまで来たというところがある。歩きより、自転車。自転車より車。便利なものが現れ、合理的に時間を使えるようになった。農業でも機械が無ければ、なかなか事業的にはならない。1反の田んぼを耕すだけでも、鍬と鋤でやり通すための体力自体がもうない。若い人と一緒に働いてはいよいよそれを痛感する。機械を目の前にすると、ひたすら耕すような労働を、楽しんで行うことが出来なくなる。労働がお金に換算されれば、合理的な働き方が計算される。

 便利な機械の御蔭で、規模拡大できて、暮しも目に見えて良くなった。確かに農村の様変わりは素晴らしいものがある。隣がトラックタ―の30馬力を買えば、40馬力が必要になる。その機械の払いの為に、都会に出稼ぎに行っていたのが40年前。今や、地元の工場へ働きに行って、農業の方がついでのようになった。日曜農業だから、各家で機械が必要になる。そうこうしているうちに、周辺に農業を専業にやる人がほとんどいない。久野という4000世帯ぐらいの地域で、10軒ぐらいしか専業農家の人はいない。農地管理という規模拡大。利益が増える訳ではないが、地域農業を維持するため、引き受ける。いよいよ機械が必要になる。そうして担い手の平均年齢は65を越えたという。

 たぶん、電気ほど手っ取りいエネルギーはない。コンセントを差し込む、スイッチをいれるだけの便利さ。オール電化住宅の暮らしが最先端のように宣伝していた。便利で手っ取り早いことが、暮しにとっていいことかどうかにある。お米をスーパーで買えばたしかに簡単である。自分で作れば、八十八の手間がかかる。実はこの面倒くさいが、生きることだったのではないか。簡単便利に置き変えてゆくうちに、生きることの、面倒くさい本質を忘れてしまったのではないか。生きることはやさしくも簡単でもない。なかなか厄介なところが面白いものなのだ。お米を作れば面白いのである。この面白さを、便利さは持って行ってしまった。お米の本当の美味しさは、八十八の手間を掛けて作った人にしか分からない。生きることの面白さも、面倒くさく生きてみなければ、分からないはずなのだ。

 - Peace Cafe