戦後処理

   

羽仁五郎氏は都市の論理のなかでその時代を、戦後ではなく、戦前としていた。無理な言い方をしていると、その時は感じた。しかし、今に成ってみるとその戦争がどんな戦争であって、その戦いに敗れたことが分かった。日本は経済戦争に敗戦したのだ。大震災とそれに伴う原発事故によって、経済戦争は敗戦が決定的となった。この長く続いた50年戦争といっても良い経済の戦いは、こういう形の敗戦が待っていた。アジアでの侵略戦争の際も、敗戦を気づかず戦い続けようとした兵隊がいた。転進、転進で、敗北を理解できず、戦いを続ける日本人が今後も居るのかもしれない。が、50年に及ぶ経済戦争は、日本という国として敗北に終わった。敗戦したのだと分かってみるとすべてがつじつまが合ってくる。

長いながい戦争だった。原子力エネルギーが不可欠であると、すべてを犠牲にしても勝たねばならぬとしてきた。憲兵の拷問は無かったが、隣組的抑止力は充分働いていた。CO2問題を巧みに取り込んだ国民の洗脳は、巧みな情報戦略で、莫大な費用で仕掛けられていた。教育も完全に取り込まれた。原子力発電は安全であると教科書にはごまかしの記載をした。そして敗戦となって、また、教科書に墨を塗ることになった。報道は時の政府に対して批判勢力であるかのように偽装しながら、体制翼賛の報道を垂れ流して来た。これも前回の戦争と同じだ。国民に対して巧みな報道管制が、あうんの呼吸で行われてきた。この阿吽の呼吸を作り出す暗黙の信号が、お金である。お金の儲かる方を嗅ぎつけて、一糸乱れぬ、ときに批判勢力を装い、決定的なところでは、巧みに国民を誘導してきた。誰もが核燃料が溶け出し、爆発が起きているのではないだろうかという時にさえ、「白い煙が見えていますが水蒸気がでしょうか。」ぐらいの、間抜けな卑劣なコメントを続け、汚染に導いた。

御用学者といわれる多数の学者たちが、いかに国の言いなりに動いていたかが、愚劣な形で露見した。経済戦争体制つまり、産学協同を掛け声に、原子力村なるものを形成し、学問としての反原発論を封じ込めた。放射線医学を専門にするものは、放射能がいかに安全であるか、直ちに健康に影響はない物質であるかを言い続けた。まさに戦時体制そのものである。気象学会では、自由な研究発表の禁止令である。学問の世界は、知らない間に自主規制によって、ここまで来ていたのである。ここまで来ても、敗戦を認めず、一億玉砕を叫ぶような暗黒の学問世界である。70年が最後の、反戦の場であった。学問。報道。政治。すべてが経済戦争に巻き込まれるかどうかの反戦の戦いは、何も残せないまま社会に吸収された。その責任の大半は団塊の世代の、その後の生き方にある。それぞれが自分の理想とする人間にどこまで近づくことが出来たのか。そろそろタイムリミットが近付いた、現時点で考えてみなければならない。

敗戦からどう立ちあがるかである。父は7年間の戦地から引き揚げ、日本人の腰が抜けて、腑抜けになって、どこでもしゃがみ込んでいたと言っていた。なるほどと思い当たる。気力というものが萎える。そうした絶望感にさいなまれる。しかし、この経済戦争の主要員として働いてきた世代は、後の世代に対して、大きな責任を負っている。戦犯を一部のものに押し付ける愚をしてはならない。この時代に生きてきた人間は、大なり小なりこの戦争の責任を負っている。もう一度、再戦を目論むなどさせないことである。日本人が持っていた、幸せの暮らしに戻ることである。地球という枠の中での、人間の暮らしの領域を知ることである。世界は引き続き経済の戦争を続けるだろう。その悲惨は繰り返されるだろう。しかし、日本という地域で、収まりの良い豊かさのある暮らしが存在することは、出来るはずだ。

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