春が来た。

   

久しぶりに雨が降り続いていいる。庭の木が雨に打たれて色鮮やかである。弱音が言える社会の方がいい。テレビでいろいろの人が励ましてくれている。例えば、トウタス松本さんの言葉が、最初はどうということが無かったのだが、最近はホッとして聞こえる。それで自分の心の中が疲労していることに気が付く。この1カ月の深い疲労がたまっている。首筋あたりがしびれる。ひどく凝っている。手3里あたりの両腕に、湿疹が出続けていて治らない。大腸が弱っているからだと言われた。そうかもしれない。3月中は強い緊張感で、疲労に気づかなかった。一人ではとても、農作業をする気になれなかったが、日曜日には土振るいがあり、田んぼの苗床の測量などがあり、少し身体を動かした。その勢いで昨日は畑に苗を少し植えた。軽い畑の作業は気持ちを落ち着かせてくれる。腰が重いが、少しづつ始めようかという気になってはきたが。

「がんばろう日本」は違うと思う。「がんばろう神戸」のときも少し違うと感じた。「だいじょうぶ日本」ぐらいではないか。今の状況は頑張りすぎた結果だと思う。しっかりやるということは大切だが、がんばるのはどうだろうか。「一番じゃなければいけないのですか。」後れをとって当たり前だ。勝つことを目標に生きるなんてことは、美徳でも何でもない。勝つものがいれば負けるものもいる。1番でない人間が、普通の人だ。「駄目でも良いじゃん」「駄目こそ面白い。」こういう生き方を見つける方がいい。駄目だからと言って生きて行く権利は、1番の人と同等だ。フランスで学んだものがあるとすれば、駄目人間の居直りの哲学だ。優秀な人にはふさわしい役割があり、駄目な自分には、それなりの役割がある。どちらが上とかではない、競争は初めからしない。生きて行くのは大変だが、それはそれでいい。その受け流しかたを、偉そう言うところがいい。がんばりはカッコ悪。

田んぼの仲間はいい。弱音で付き合えるからいい。当然のことで、別に田んぼをやるのに特別なことはいらない。普通にやればいい。人よりやれる人はやる。やるから偉い訳ではない。やりたいからやっているに過ぎない。こういう状況がいかに大切なものか。人から監督されない労働。本来の労働は楽しさがある。晴々とするのが働くことの喜びである。雨が降るというので、雨の前に急遽苗床を作った。6人の人が集まった。今年は4か所に苗床が分かれるので、舟原では、セルトレーが500枚程度に成る。苗床もあまり広いと水の廻り等ムラが出来てしまう。畝幅が130センチで18メートルのベットが5本である。トラックタ―で丁寧に出来る限り細かく耕したのだが、土が湿気ていて納得ゆく細かさにはならなかった。みんなで周りにぐるりと水路を掘ってくれた。日曜からいよいよ種まきである。土も出来ているし、クン炭も出来ている。種籾の浸種も順調である。

欠ノ上で苗代作りを行った。欠ノ上では初めての苗床に成るので、少し心配である。いよいよお茶摘みの予定をしなくてはならない。桜の様子からからすると、かなり遅れそうだ。今年我が家の花木は丸で一斉開花である。椿、杏子、桃、プラム、桜、しでこぶし、ユキヤナギ、シャクナゲも蕾が割れ始めた。花ほど晴れやかなものはない。春に咲く花は、明日を感じさせてくれる。こんなときだからこそ、花見が良い。少し寂しい、悲しい花の下でとなると一杯というより、お茶を飲みたくなる。以前、菜の花茶会をやったことを思い出す。ゆっくりお茶を飲むという時間が必要だ。身体を動かして、少しづつ身体が春を感じる。身体がほぐれて来ると、体調も少し回復を感じる。身体が弱まる時というのは、やはり必要があって弱まっている。体調に合わせて動けということ。少しづつ、動き出してゆこう。田んぼに橋本宙八さんご家族が見えた。さすがに印象の深いご家族だった。そのことは改めて書きたい。

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