竹林の整備
自給生活に竹林は有難い。竹というものがとても重宝な材料だからだ。100坪程度の竹林があると有効である。と言ってもそれを持て余してしまうのが、現実である。隣接する南足柄のみたけ集落では、上手く竹を管理していると言うので、テレビのご近所の底力に取り上げられていた。国の補助金も入っているようだ。しかし、そとから見ている範囲では、竹に負けているように見えるが違うのだろうか。舟原では竹には負けている。美しい竹林というより、竹がはびこってしまったように見える。特に我が家の竹やぶはそうだ。何とかしたいと思いながら、5年が過ぎた。いよいよひどい状態に成っている。今年の冬は懸案の竹やぶ整理に取り掛かった。状態としては、枯れて傾いてにっちもさっちもいかなくなった竹を徐々に取り除いている。前回Hさんたちが、塗り壁に使うコマイがいる、と言うので切ってくれた。
やっと中に行って行ける空間が出来た。徐々に広げて、現状5分の3ほど整理がついたところである。竹藪の中は良い空間である。竹藪の中の清浄感は独特の微生物が充満しえいるようだ。冬でも寒いことはない。徐々に美しくなってゆくことが分かる。実に良い仕事である。一人では長くはやれない。実は毎日2時間から3時間10日ほど続けている。そのうち自給の作業として、2時間だけ繰り入れた。筍を取るという意味だ。真だけの竹やぶであるが、筍を食べることはできる。筍も少しあればいいので、2時間だけ自給に入れた。では後の時間はどう位置付けるかと言えば、絵を描く時間に繰り入れるのが一番良い。風景を作る仕事。どんどん絵を描いている気分である。竹藪の中から空を見上げる。これがまた美しい。1っ本切り、2本切り。空の形が変わって行く。風が吹いて、空は広がりまた閉じてしまう。竹藪の地面はどんなに荒れていても清潔だ。厭な感じが少しもない。座り込み寝そべる。愉快この上ない。
竹藪に暮らしたらいいだろう。樹林気功の今田さんはブナ林を言われていたが、私は竹林だ。やはり子供の頃、竹に囲まれた向昌院で育ったせいだろうか。竹の海の中に漂っているような時が何度もあった。夕暮れに風が吹き出す。緩やかにすべてがうねりに成る。このうねりが催眠のように、いつの間にか目が回るように呆然と見入っている。夕魔が時。そんな時に巨大なトンボを2度見た。竹藪の上をかすめ、いつもの鬼ヤンマより、ずーと大きなトンボ。昭和28年か29年。幻影なのか現実だったのかはもう分からない。竹藪の中に少し広い空間を作り。周辺の竹を引き寄せる。ぐるりと引き寄せ編んでゆけば、ドーム状の家に成る。この中に暮らしたらさぞいいだろう。竹取の翁である。
竹はハザ掛け用にそろえている。脚を取る分と、竿を取る分と、手間はかかるがやりがいがある。今年増える田んぼは3反はある。その分を考えるといくら切って置いても、足りないだろう。特に足が足りなくなる。竿の方は、太いところをただ切ればいいから、いくらでも貯まる。足の方は1本の竿に対して、8本は居るのだから。相当の本数が居る。しかも、足を作ろうとすると、枝を払わなくてはならない。これがまたすごい手間である。根気仕事であって、気がつくと竿ばかりに成るものだ。何故か、竹が細い。管理しないからだろう。竹の厚みもない。これでは良い筍も取れない訳だ。竹林の整理が終わったら、糠を撒こうと思う。筍もすぐ茹でてから、冷凍しておくと長く使える。どうしても冷凍庫が居ることになる。冷凍庫を買う方がいいのかどうか、迷ってはいるのだが、