こども園構想
保育園に子供を入れたいのだけど、入れないで待っている待機児童家庭が増加している。一方幼稚園では子供を集めるのに苦労している。それで出てきたのが、幼稚園と保育園を境を無くした、こども園構想である。厚労省管轄と文部省の管轄に分かれていた不合理も解消する。各自治体の裁量権の範囲で許認可をした方が、地域の事情に沿うことができ合理的だ。という声にも押されている。保育園は入れない。幼稚園は園児不足。保育園は基本は両親が共稼ぎの家庭。夕方まで一日預かる。幼稚園は2時ころで終わる。果たしてこの二つが合体してうまく行けば、問題解消である。幼稚園の経営は、とても難しくなっている。入園する子供が減少している。親にしても、2時で帰ってくるのでは困る。夕方まで幼稚園に居てくれれば、助かる。そういう非公式なサービスをしている、幼稚園も昔からある。
本来なら、それなりの施設。例えば調理施設や子供の暮らせるような部屋としての条件など保育園では、設備や人員の要求度が高い。一方、保育園でも幼稚園的に教育を行うところが増えている。ただ子供を預かるだけでなく、幼児教育をするようになっている。確かに垣根があるというのは良くない。なんとなく保育園と、幼稚園の差別的な色分けも感じる。現状の幼稚園から見ると、教育の多様性である。それは様々である。英語教育をやります。パソコン教育をやります。自然児教育をやります。人間教育を行います。受験教育まである。特色を出さなければ、子供が集まらない。親の要求に目ざとく乗るということが、経営として模索される。こうなるとまともな普通の幼稚園が追い込まれる。幼稚園の先生も、経営に押され当然過重労働に成る。より高い能力が要求される上に、管理が出来ない子供は増える。
そもそもを考えれば、両親の育児負担を減らしたいという気持ちが原点である。暮らしがぎりぎりで、子供を見ていられない。背景には格差の問題もある。子供が育つ環境としての地域社会が崩壊している。ということでもある。社会に余裕が無くなっているから、子供の居場所がない。子供同士で集団を作り、育ってゆくという社会で無くなっている。団塊世代くらいであれば体験として、子供同士の集団の中で、切磋琢磨し育てられたという意味が分かると思う。いじめも差別もあった。社会の縮図としての子供集団。悪をすべて取り除いたような生ぬるい中で、子供が育つのかどうかもあやしい。小学校の学級崩壊が教師の能力低下だけにある訳ではない。親がいなければ子は育つ。こう言う親もいる。親を見て子供は育つ訳で、理想道理には行く訳がない。
こども園である。どこまで自由な、規制のないものにできるかである。設備に置いてもがんじがらめにしないことである。要は育てる人の魂である。制度を作ると言うと、認可条件を高める傾向がある。思い切って下げることだ。幼稚園にしてみれば、補助金の削減。保育園にしてみれば、保育料の高騰。対象年齢の子供手当などやめて、こども園の無料化の方がいい。こども園に行かない子供には、子供手当を出す。富裕家庭の子供手当がどうしても許せない。そんな無駄をやっている余裕はこの国にはない。