農地の国有化論

   

農地は海である。海は漁業権のようなものはあるにしても、そこは国民全員のものである。海を個人所有することはできない。農地を利用する者が持つ権利は、耕作する営農権とする。他の土地とは一線を画したものにする必要がある。そこまでの荒療治以外、日本農業は立ち直るすべがない。戦後アメリカの政策に従った超法規的処置と言える農地解放で、農業者は一度は同規模の自作農になったはずであった。耕作していたものが、その農地の所有者になった。耕作しているということが、最優先されたのだ。不在地主のような存在を、問題ある不労所得者とした。直接に働く者が大切にされたなければならないという哲学であろう。確かに、戦後の農村の空気は活気があった。小なりといえども、自作農として喜びを持って精一杯働き、生活をしていた。大いに開墾などして、農業の未来に希望だけはあった。

所が、その哲学がまた歪んでいる。農地を所有するということが、財産となっている。保有することだけがその価値となっている農地がある。何らかの幸運が訪れて、価格が倍増するかもしれない土地。という位置づけである。都市近郊では実際にそうしたそ、農地からの転用によって、大きな財産となした人が何百万人と存在する。その幸運を目の当たりにした農地保有者には、もう一度再現するに違いない期待感が、農地の性格を変えている。この期待感を一掃する必要がある。法律では、すでに転用は厳しく制限されている。しかし、蛇の道は蛇ということで、大もうけした人の抜け道話だけは、真偽は別にして良く聞く。このことが農地という性格を不健全なものにしている。農地は耕作されて初めて農地になる。農業生産がされない農地が存在すること自体が、どこかに問題があると考えるべきである。相続税対策用栗苗という話がある。栗の苗さえ植えておけば一番手間いらずで、税務署に農地に認定されるというのだ。

農地が生産地である、こういう農地本来の理念から完全に離れている。このことが日本農業の抜本的改革が出来ない、障壁になっている。かつて農地解放があったように、強権を持って、農地を生産の場に戻すほかない。農地を国有化すれば、悪いことが次々起こることが予測される。その権限を悪用する人間が現れるだろう。政治家はその筆頭となるだろう。企業も、農協も、いかにすればその権益を、我が物に出来るか画策するだろう。役人はその許認可権限を横暴に駆使するだろう。そうに違いない。そうに違いないにもかかわらず、国有化するしかないと考えている。まつわるだろう悪事を前提にしても、このまま崩壊を待つことはできない。農業はそれほどの危機にある。その根本にある問題点が、農地が生産の場で無くなっていることである。

営農されない農地は、公明正大な入札制度を持って、新しい耕作者を募集する。営農権を現所有者に与える。一定期間営農出来ない場合は、営農権を失う。財産権を奪う訳だから、最低限の費用で買い上げる。土地管理の第3者機関がその営農権を持つ。農地の地代は状況に応じて、有償、無償、補助金付き。と実際耕作がおこなわれるレベルに分けて運用する。日本の国土をもっとも合理的に再編成する。農業の生産性を上げるためには、必要な処置である。広大な機械化農業の適地。中規模の個人経営の適地。中山間地のように、経営的には不適な地域は市民的利用とする。大きな用途地域の線引を行い。国土の有効利用をはかる。大規模農地への個人の宅地の混在のようなものは、将来は整理されてゆくような法の規制をかける。などと書きながらも、出来ないだろう、問題はさらに深まるか。という絶望感がある。それでも、やらないよりやった方がいい。荒療治。

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