水彩人展終わる
水彩人12回展が終わった。何度も東京に出掛け、絵のことを考え話し、夜中まで酒を飲んだ。得るものが大きかった1週間である。今回の一番の収穫は、農の会の記録映画を撮られている、岡田監督の一言である。「見えているのだから、そこまでは描きたい。」と話したら、「笹村さん、見えているものを撮影することだって難しいですよ。」こう言われた。目から鱗である。「笹村さんを撮影しても見えている笹村さんとは限らないのですよ。」なるほど。映像的とか簡単に言ってしまうが、網膜に映る映像というものも見たいように見ているということか。見えているということが、実は意志的なものなのかと、言われて見て納得のいく話だった。だとすると素晴らしいと感じている舟原の景色も、実は素晴らしく見たいという思いが、頭の中に素晴らしい景色を作り出している。それを美しいものとして、画面に再現しようとしている。
絵というものの一面が開けて来るような気がした。絵は田んぼをやっている時や、畑をやっている時に出てくる。鍬で地面をざっくりと耕しているときに、急に地面をこうやりたいなとか思う。畑の草取りでぼーと無新の時に突如、描きたいものにきずいたりする。さー絵を描くぞ、というように絵を描くことはない。田んぼ仕事する。そうしたときに絵にすべきものが溜まってくる。どうやるという手順はないのだが、散歩をしながら、だんだん頭の中に絵が出来上がってゆく。そうした何枚かの絵が、実は今も頭の中にある。まだ煮詰まらないものが何枚かある。何枚かというのは、一枚になるのか、2枚になるのか。そういうことも明確ではない感じだ。ただあの空とか、あの林とか、あの道とか、細部が溜まってきている。それが、畑で腰を伸ばした時に、まとまって具体的になったりする。やってみるか。ということになる。
画面に実際に色を置きだせば、2時間ほどのことだ。それは現場でやる時もあるが、アトリエの時もある。わざわざ現場に行くが、その景色が実際に見えるところでないところで描くこともある。こうしたことがいいやり方がどうであるとかいうことも、いいのである。ただそうやっているなと、改めて思ったのである。それが見えているもに一番近付くやり方だと思っているからである。2時間ほどで出来上がる訳でもない。一応は終わるのだが、それをいつでも見える状態で、眺めている。眺めているうちに、それは違うと思うこともあるし、こうだとわかって新しくもう一枚描くこともある。だから現実に絵かが期欠けの絵が、数枚並んでいて、頭の中にも数枚になりそうな絵が並んでいる状態である。それでやっているのは、日日の農作業である。だから、農作業を繰り返している時、漠然と絵のことを考えているのだろう。だから自分にとっては、ずーと絵を描いているようでもあり、すーと農作業をしているような感じでもある。
水彩人展には多くの人に来てもらえた。2220人とか言われていた。12回展での作品評を書いた。それは全員のものである。ここにそのすべてを乗せてもいいのだが、やはり、良くない評価のものを載せる訳にもいかない。良かったものだけを載せておく。
○磯貝 雅子
筆触に変化が起きている。鋭く痕跡が残って、早くなった。ためらいがなくなった。物を描く線と、空間を描く線が、同じになった。その為もあって、線描と面を塗る方法の関係が若干崩れている。そこで、どうしても消す作業が多く入るのではないだろうか。制作の核心に近づいたのかもしれない。ただの心地のよい絵ではなくなっている。その分絵にあった、ある種の雰囲気で醸し出されていた世界が喪失した。悪いことではなく、自分の絵画に向かったのではないだろうか。定型的な静物的構成を越えて欲しい気もする。絵画であるという常識も越えて、新たな展開が胎動しているのかもしれない。だめになったりおかしくなったりすることを恐れず、突き進んでもらいたいと願う。
○疋田 利江
とてもいい作品である。疋田絵画の集大成ともいえる作品ではないか。よくここまで来たと感銘し励まされた。この絵の良さは難解である。普通の絵画世界を超えて、疋田さんの絵である。こびない精神が毅然としている。もうほとんどの人には理解もされないだろう。評価も偏在する。そういたことにも恐れがない。見栄えとか、評価とか、そうしたものから離れている。決然と自立したところがいい。白の絵具と、白の紙の表現と、その渾然たるハーモニーには、全く水彩の新しい発見があるとすら思う。学ぶところがあり、深く感謝しています。
○松田 憲一
油では定評があった、松田流のマチュエールが水彩でも完成してきた。そのことから新たな、素晴らしい世界が出てきた。今回の作品は水彩表現の一方向を示している。その昔小笠原さんが小品ではあらわしていたものを思い出した。それをこれだけの大きさの中で実現し、ただならぬ世界を現出している。この重い暗いものはなんだろう。死後の世界のような沈んだものか。絶望が漂う。寂しい魂が宿っているような沼だ。油でのサービス精神が水彩には一つもない。このさっぱりとして、充分なものこそ、水彩絵画の一つの在り方だと感じた。硬質な平面表現が、薄い水彩の描法にこもっているすごさ。水彩の新しい可能性を感じた。