シーザー・ミラン『犬の気持ち分かりますか。』
子供のころから、いつも犬は飼っていた。犬に助けられたこともあるし、犬から学んだことは山ほどある。犬の気持ちは、自分なりに分かるつもりでいる。カリスマ・ドックトレーナー「シーザー・ミラン」のビデオを見て、とても興味深かった。手に負えない問題行動を起こす犬を、立ちどころに従わせてしまう。この方法が面白い。犬が飼い主を支配しているので、飼い主が犬を支配すればいい、という一点に帰着することになる。かわいがりすぎておかしくしてしまった犬に対し、犬自身に支配されているということに気付かす。犬に自分の位置を確認させるという手法だ。これがアメリカの西海岸のセレブに受けているそうだ。つまり、アメリカにもやたら甘やかす飼い主が多いらしい。日本では、だいぶ事情が違うと考える。違う理由で問題行動を起こしている。ここに出てくる犬は、部屋飼いである。日本のように、鎖につないで庭に飼うというようなことではない。日本の問題行動の犬は、動物虐待が原因することが多い。
犬は同志である。「友人であり、仲間だ。」人間がボスでもないし、犬が家来でもない。シザー・ミランの指導法の問題点はここにある。犬が群れで暮らした、かつての野生の姿からの連想で、犬はどの犬でも常にリーダーに取って代わろうとしている。大抵の事例を同じに考えてしまうのは、とても歪んだ見方だ。犬と人間の付き合いは、暮らしの文化としてかつては構築されていたものがあった。助けあう関係。犬が周辺に居る事で、人間の暮らしは成り立ってきた。これはリーダーとか、支配とは違う、適度な距離の良い関係を作るように互いに配慮した結果である。シーザー・ミランが取り上げるアメリカの問題犬は、犬を家族の一人として扱うために起きる問題である。アメリカの人間疎外の穴埋めとしての犬の存在。もちろん日本でも現われている現象ではある。
しかし、日本で一般に行われている犬の訓練というのも、これまた歪んだものだ。警察犬や盲導犬の訓練のような手法を、家庭で飼う犬の訓練に応用する。そんなことで素晴らし犬はできない。確かに訓練所で訓練すれば、飼いやすい都合のいい犬になるだろう。しかし、それでは大切なものが失われている可能性も高い。散歩の時、自分の前に犬を出さない。良く言われる共通の指導目標だ。それしか仕方ないから行われている。半分だと思っている。自由に前に行き、後ろに行き、飼い主をホローするのが犬の役割だった。鳥を追い出したり、獣を追い払ったり、役割を持って共に行動してきた。その付き合い方が、犬と人間の長い時間をかけて構築した文化だ。しかし、人間の暮らしが大きく変わり、愛玩犬というおかしな役割。つなぎっぱなしの番犬とか。人間の都合で、実にゆがめられている。犬は放し飼いが本来である。ゆがめられた現実の中で、都合のいいだけの犬の見方では、犬の素晴らしさは発揮されない。
現代社会の生活環境で、放し飼いをしろとは言えない。しかし、そうして発揮される犬の素晴らしさを、見失えば犬の持っている人間以上の素晴らしさは、発揮されない。人間のわずかな感情、行動、の変化を読み取り、配慮できる犬がいる。気を察することのできる犬。悲しんでいる人間をどのように慰めればいいのか、距離の取り方の正確な犬。起こりうる危機を察して、人間に知らせる犬。信じがたいほどの忍耐力をもって、人間を支える犬。有り余るほどの深い愛情を、適切に示せる犬。近所の子供を大人の暴力から守った犬。記憶に残る名犬はすべて放し飼いである。有名なハチ公だって、放し飼いである。放し飼いが出来る環境がついこの前まであった。人間の暮らしを変えておいて、犬をダメにしたことを忘れて、カリスマドックトレーナーに頼るようでは。変えるのは暮らしの方だ。